私欲が公欲に転換した人は利益よりも真理を大切にするようになる。
『大学』に次の言葉がある。
書下し文
国は利を以て利と為さず。義を以て利と為す。
現代語訳
国は利益を利益と考えず、真理を利益と考える。
ジェフ・ベゾスに次の言葉がある。
私は、金の亡者ではなく伝道師の道を常に選びます。ただなんとも皮肉なのは、普通、伝道師のほうがたくさんのお金を儲けてしまうという点です。
皮肉なことに利益を求めるより真理を求めたほうが大きな利益が上がるという。
『論語』里仁篇に次の言葉がある。
書下し文
子曰く。君子は義に喩り、小人は利に喩る。
現代語訳
孔子が言われた。すぐれた人は真理に詳しく通じ、劣った人は利益に詳しく通じる。
「喩る」は「さとる」と読む。同じく『論語』憲問篇に次の言葉がある。
書下し文
子曰く。君子は上達す。小人は下達す。
現代語訳
孔子が言われた。すぐれた人はすぐれたことに通じ習熟する。劣った人は劣ったことに通じ習熟する。
『論語』子路篇に次の言葉がある。
書下し文
子曰く。君子は仕え易くして、喜ばしめ難し。これを喜ばしむるに道を以てせざれば、喜ばざるなり。その人を使うに及びては、これを器にす。小人は仕え難くして、喜ばしめ易し。これを喜ばしむるに道を以てせずとも雖も、喜ぶなり。その人を使うに及びては、備わらんことを求む。
現代語訳
孔子が言われた。すぐれた人には仕えやすいが、喜ばせるのは難しい。真理によってでないと喜ばないからである。そして人を使うときには、部下が完璧であることを求めず、部下の長所を用いて使うから仕えやすい。劣った人は仕えるのが難しいが、喜ばせるのは簡単だ。真理によらなくても喜ばせることができるからだ。そして人を使うときは、部下が完璧であることを求めるから仕えにくいのだ。
すぐれた人を上司に持つと仕えやすいと言う。すぐれた人は部下に完璧であることを求めず、その長所を用いるからである。しかし喜ばせるのは大変だ。真理に対する貢献をしないと喜ばないからだ。劣った人はその逆である。真理に貢献しなくとも賄賂やおべっかでも喜ぶから喜ばせやすいのである。
『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』から引用する。アマゾンのユーザーサイトのカスタマイズについての記述である。最近ではアマゾン以外でも模倣されている機能である。ネットショップのサイトでまだ買ったことないが自分の興味のありそうな商品が並んでいることがあるだろう。あれだ。ベゾスはこの機能の発明を非常に喜んだという。
秋になると、第一ラウンドの投資家にベゾスが約束したように、ユーザーに合わせたサイトのカスタマイズが始まった。もととなったのは、MITメディアラボから派生したファイアフライ・ネットワークという企業が開発したソフトウェアである。アマゾン社内ではブックマッチと呼ばれた機能で、ユーザーが何十冊か本を評価すると各自の好みに応じた推奨本を提示するものだった。ただ処理に時間がかかりクラッシュすることも多かったし、そもそも、本の評価という余分な作業をしたがらないユーザーが多いという問題があった。
ベゾスは方針を転換、顧客が過去に買った本からおすすめを提示するという、もっとシンプルなやり方をパーソナライゼーションチームに指示する。これに応え、エリック・ベンソンが2週間ほどかけて作ってみたのが、購買履歴が似ている顧客をグループ化し、グループ内の人にアピールするおすすめ本を見つけるという方法だった。シミラリティーズと名づけられたこの機能を実装したところ、売上がはっきりと上向いた。素晴らしい機能だと心を動かされたベゾスがおふざけで土下座し「もったいなき幸せにございます」とくり返したのを覚えていると、このプロジェクトに参加したエンジニアのひとり、グレッグ・リンデンは言う。
ベゾスのことはよく知らないが、おそらくこの場合のように真理に対する貢献をしないと喜ばないのではないかと思う。『論語』にある通り、彼を喜ばせるのは大変なのである。すぐれた人はただただ真理に従う。
『荀子』不苟篇に次の言葉がある。
書下し文
君子は人の徳を尊び人の美を揚ぐるも諂諛に非ざるなり。正議直指して人の過ちを挙ぐる毀疵に非ざるなり。己の光美を言いて舜・禹にも擬し、天地にも参ずるとするも誇誕に非ざるなり。時とともに屈伸し、従順なること蒲葦の如くなるも、懾怯に非ざるなり。剛疆猛毅にして伸びざるところ無きも、驕暴に非ざるなり。義を以て変応し、曲直に当たることを知るの故なり。
現代語訳
すぐれた人は他人のすぐれた点を尊敬し称賛するが、それはへつらいのためではない。正しく論じ率直に他人の過ちを指摘するが、それは相手を傷つけるためではない。みずからのすぐれた点を述べて、古代の聖人とも比べ、天地のはたらきを助けるほどだと言うが、それはうぬぼれのためではない。時の推移とともにある時は控えめにし、ある時は勇敢である。ある時は蒲の葉や葦の葉のようにやわらかく従順であるがそれは臆病なのではない。ある時は剛強でどこまでも毅然としてやり遂げるが、それは粗暴なためではない。それはすべて、真理に従って物事に対応し、その時々において正しい行動をとるからである。
すぐれた人は他人のすぐれた点を称賛するが、それは相手の持つ真理を称賛しているのである。へつらっているのではない。他人の過ちを指摘するが、それは相手が真理から外れていることを批判するのである。相手を傷つけるためではない。自分のすぐれた点を率直に述べるが、それは自分の持つ真理を伝える必要があるからである。うぬぼれのためではない。時に控えめなのは私利私欲より真理を優先させるからである。臆病だからではない。時に剛強なのは真理を実行に移す必要があるからである。粗暴だからではない。すぐれた人はただただ真理を大切にするのである。
『三国志』の趙雲はこの典型である。孫権に関羽を斬られて烈火のごとく怒る劉備に、国の理念に照らし呉遠征をやめるよう諫めた。主君に対しても真理に照らしては譲らない。それは劉備を傷つけるためではない。真理に従っているからである。長坂の戦いでは曹操の大軍を恐れず、劉備のためにその子阿斗を救った。勇敢であったのは粗暴なのではない。主君への忠義という真理のためである。彼は将軍位が低かった。電子書籍に載せた私の解釈では、当時の劉備軍では関羽や黄忠、馬超たちのあいだで功名争いがあった。趙雲はそれに気を使い高い将軍位をもらわないようにしていた。それは臆病だからではない。国の人の和という真理を重視したからである。第一次北伐の際、見事な退却戦を演じた趙雲を孔明は賞しようとした。しかし趙雲は道理を重んじ辞退した。これも道理を重んじるためである。趙雲は私欲が完全に公欲に転換している人である。
孔明はそのような趙雲を高く評価した。孔明と趙雲は公を通して信頼しあいつながっていた。真理によって結びついた。それに対し劉備・関羽・張飛は任侠的な私的なつながりであった。互いの人間的魅力を通じて信頼しあった。現代でも人と人とのつながりにおいて、公を通してつながる場合と私的につながる場合と2パターンある。もちろん両方を兼ねている場合もある。
私は1970年代後半生まれである。私たちの世代で時々あるのが、既得権益を持つ上の年配の世代を悪の帝国としてそれに立ち向かうのが正しい、かっこいいと考える人がけっこういる。それは中庸が取れていない。もちろん逆に年配の人たちにしっぽを振るのも正しいわけではない。それはもっと良くない。正しい中庸は、年配の人たちを批判しながらも協力していくという姿勢である。本当に正しい中庸は単に中間をとるのではなく、本質を捉えた結果、中庸に落ち着くのである。
年配の人たちを批判するのは彼らを傷つけるためではない。真理から外れた時にそれを指摘するために批判するのである。彼らに協力するのは、こびへつらっているのではない。真理を実現するために協力するのである。ただただ真理に従うのである。
反骨精神は確かにエネルギーになるので全否定はしない。しかし本当に正しい在り方ではないと思う。
『論語』里仁篇に次の言葉がある。
書下し文
子曰く、君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義にこれともに親しむ。
現代語訳
孔子が言われた。すぐれた人が天下で自分の仕事するに当たり、これは絶対にダメだと言う固定観念もなく、これは絶対に大切だと言う固定観念もない。ただただ真理を大切にしていく。
もちろんすぐれた人も、いやすぐれた人だからこそ、絶対に譲れないこれは必要だという信念を持ち、これは絶対にしてはいけないという信念がある。しかしそれらの信念の根拠は真理に由来する。主観的な固定観念や私利私欲はもたず、ただただ真理に従っていくという意味である。
年配の人たちにしっぽを振ってでも取り入ろうという「適」「これは絶対に大切だと言う固定観念」もなく、年配の人たちにとにかく反発しようという「莫」「これは絶対にダメだと言う固定観念」もなく、ただただ真理に従うのである。そういう意味である。
例えば慎重さと大胆さの中庸も同じである。慎重すぎてもいけない。大胆過ぎてもいけない。真理に照らして慎重にすべき時は慎重にし、大胆にすべき時は大胆にする。絶対に慎重にするという「適」の「固定観念」もなく、絶対に大胆にしようという「莫」の「固定観念」もなく、ただただ真理に従うのである。これが正しい中庸である。
スポーツや囲碁将棋の攻めと守りも同じである。攻めすぎてもいけない。守り過ぎてもいけない。状況に応じて攻めるべき時は攻め、守るべき時は守る。常に絶対に攻めるという「固定観念」もなく、常に絶対に守るという「固定観念」もない。ただただ真理に従うのである。
絶対に金を稼がないといけないという「固定観念」も無く。絶対に清貧でなければならないという「固定観念」も無い。真理に照らして稼ぐべき時に稼ぎ、稼ぐべきでないときは貧しくある。ただただ真理に従うのである。それが正しい中庸である。
人生楽しくなくてはいけないという快楽主義者のような「固定観念」も無く、人生苦しまなければならないという苦行者のような「固定観念」も無い。楽しむべき時は節度をもって楽しみ、苦難が来たら自分を磨く。素直に状況に順応し、ただただ真理に従うのである。
人より先んじるのがかっこいいという「固定観念」も無く、他人の後から行ったほうが確実だという「固定観念」も無い。状況と真理に照らして正しい選択肢を選ぶ。
俗世から隔絶しすぎてもいけない。俗世に埋もれてもいけない。俗世から必ず隔絶するという「固定観念」も無く、俗世に埋もれようという「固定観念」も無い。ただただ真理に従うのである。『論語集注』に次の言葉がある。
書下し文
程子曰く。君子の世に処するに、事の義に害無き者は、俗に従いて可なり。義に害あれば、則ち従う可からざるなり。
現代語訳
程子が仰った。すぐれた人が世間に処する場合、真理に照らして害がなければ、世俗に従ってもよい。真理に照らして害があれば、世俗に従うべきではない。
『荀子』不苟篇に次の言葉がある。
書下し文
君子は、行いに苟も難きことを貴ばず、説に苟も察なることを貴ばず、名に苟も伝わることを貴ばず、只、その当たるを貴しと為すのみ。故に石を懐負して河に赴くは、これ行いの為し難き者にして申徒狄はこれを能くせり。然れども君子の貴ばざるは礼儀の中に非ざればなり。山と淵とも平らかにして天と地とも等しく、斉と秦とも重なり、鉤に須あり卵に毛ありとは、これ説の持し難き者にして恵施と鄧析とはこれを能くせり。然れども君子の貴ばざるは礼儀の中に非ざればなり。盗跖は貪名日月の如く、禹、舜とともに伝わりて息まず。然れども君子の貴ばざるは礼儀の中に非ざればなり。故に曰く、君子は苟も難きことを貴ばず、説に苟も察なることを貴ばず、名に苟も伝わることを貴ばず、只、その当たるを貴しと為すのみと。
現代語訳
すぐれた人は、行いについて行うのが難しければよいとは考えず、弁舌について精密であればよいとは考えず、名声について広まりさえすればよいとは考えない。ただそれらが真理にかなうかどうかを重要視するばかりである。であるから石を胸に抱いて川の中に沈むというのは、普通の人が行い難い行為であり、昔ある人が乱世を悲しんで行ったのであるが、すぐれた人がそれを良しとしないのは、それが正しい中庸と言う真理に適わないからである。山と淵とも平らかで、天と地にも高さの違いは無く、斉も秦も同じ場所にあり、釣り針に魚のひげがあり、卵に鳥の毛があるなどという詭弁は、なかなか行うのが難しく、そのような弁舌をした人がいたが、すぐれた人がそれを良しとしないのは、それが正しい中庸と言う真理に適合しないからである。大盗賊の盗跖は悪事で非常に有名になり、禹、舜という聖人たちと同じくらいに名が知られているが、すぐれた人がそれを良しとしないのは、それが中庸と言う真理にあたらないからである。それで、すぐれた人は、行いについて行うのが難しければよいとは考えず、弁舌について精密であればよいとは考えず、名声について広まりさえすればよいとは考えない、ただそれらが真理にかなうかどうかを重要視するばかりであると言うのである。
行いが難しければそれでいい、と言うのは主観的な固定観念や思いこみである。論述が緻密であればいいというのも主観的な固定観念であり、悪い意味で単純な思い込みである。すぐれた人はそのような主観的な固定観念に従わず、ただただ真理に従っていくのである。
『荀子』非十二子篇に次の言葉がある。
書下し文
士君子の能く為し能く為さざる所。君子は能く貴ぶべきことを為すも人をして必ず己を貴ばしむること能わず。能く信ずべきことを為すも人をして必ず己を信ぜしむること能わず。能く用うべきことを為すも人をして必ず己を用いしむること能わず。故に君子は修まらざることを恥ずるも汚さるることを恥じず。信ならざることを恥ずるも信ぜられざることを恥じず。能くせざることを恥ずるも用いられざることを恥じず。この故に誉れに誘われず、誹りに恐れず、道に従いて行い端然として己を正し、物に傾倒せられず。それこれを誠の君子と謂う。
現代語訳
すぐれた人にできることとできないこと。すぐれた人は尊敬に値することを為すことはできる。しかしだからといって必ずしも他人に自分を尊敬させることはできない。信頼すべき誠実さを実践することはできる。しかしだからといって必ずしも他人に自分を信頼させることはできない。採用すべき有益なことを為すことはできる。しかしだからといって必ずしも他人に自分の考えを採用させることはできない。だからすぐれた人は自分の修養が足りないことは恥じるが、他人に罵倒されるのを恥としない。自分が誠実でないことを恥じるが、他人に信じられないことを恥としない。有益なことを為せないのを恥とするが、それを採用されないことを恥としない。そのため名誉にも誘惑されず、そしりを受けてもそれを恐れず、ただ真理に従って正しく自分を修め、外からの誘惑につられたりしない。それができる人を本当にすぐれた人と言う。
すぐれた人はただただ真理に従う。他人が自分のことをどう言うかよりも、真理を優先させるのである。それが自分にできることであるから。
『荀子』天論篇に次の言葉がある。
書下し文
天は、人の寒さを憎むがためとて、冬をやめず。地は、人の遼遠を憎むがためとて、広きをやめず。君子は、小人の匈匈たるがためにとて行いをやめず。天に常道あり。地に常数あり。君子に常体あり。君子はその常に道るも、小人はその功を計る。
現代語訳
人が寒さを嫌うからと言って、天は冬をやめたりしない。人が遠距離を嫌うからと言って、地はその広さを無くしたりしない。同様にすぐれた人は、おかしな人たちがうるさいからと言って、真理を追求することをやめたりしない。天には変わらない法則があり、地には変わらない道理があり、すぐれた人には変わらない真理がある。すぐれた人は、その変わらないものに従っていくが、劣った人は一時的な効果を計算する。
天や地に私無く、すぐれた人は真理の追究をやめない。
すぐれた人は公欲に従い、私利私欲に従わない。しかしもっとすぐれた聖人は私利私欲がすべて公欲になり、私利私欲が残らないという。わたしは当然そうではない。私利私欲はもちろんある。聖人に関し『礼記』孔子間居篇に次の言葉がある。
書下し文
子夏曰く。三王の徳は天地に参ずと。敢えて問う。如何なる斯に天地に参ずと謂う可きかと。孔子曰く。三無私を奉じて以て天下に労すと。子夏曰く。敢えて問う。何をか三無私と謂うと。孔子曰く、天は私覆無く、地には私載無く、日月は私照無し。この三者を奉じて以て天下に労す。此れを之れ三無私と謂う。
現代語訳
子夏が言った。「昔の三王の徳は天と地のはたらきを助けるほどであったそうですが、徳がどのようであれば、天地の働きを助けるまでに至るのでしょうか。」孔子が答えた。「三つの無私を鑑として天下のために働くことである。」子夏が言った。「三つの無私とは何でしょうか。」孔子が答えた。「天は私欲をもって万物を覆うことはない。地には私欲をもって万物を載せることはない。太陽と月は私欲をもって万物を照らすことはない。この三つの無私を鑑として天下のために働く。これを三つの無私と言う。」
聖人ともなると私利私欲はなくなりすべて公欲となる。そうすれば天地にならぶほどになる。レベルが高すぎて、我々がそれを目指すべきかは分からない。
■作成日:2024年6月2日
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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。