グラフを再度載せる。
B区間、つまり②型の人が③型に移行する時、表面的には人間性は減少しているように見える。韓非子を再度引用する。
書下し文
小忠を行うは大忠の賊なり。
小利を顧みるは大利の残なり。
現代語訳
小さな誠実さにこだわりすぎると、大きな誠実さを実現できない。
小さな利益に釣られると、大きな利益を失うこととなる。
為すべき仕事が偉大であれば、小さな誠実さは時に犠牲になる。だから周りから見れば人間性は減っているかのように見える。冷酷と言う評判が立つことすらある。
しかし本当は人間性は減ったのではない。むしろ増えている。小さな誠実さを部分的にあきらめて、大きな誠実さの実現に努力しているのだから。小さな人助けをあきらめて、大きな人助けを目指しているからである。人助けの量は増えている。
マキャベリ『君主論』から引用する。
チェーザレ・ボルジアは冷酷であるとの評判をとった。だがしかし、あの冷酷さによって彼はロマーニャ地方の乱れを繕い、これを統一し、安定と忠誠に導いた。このことをよく考えてみれば、あの男のほうがフィレンツェ人民よりもはるかに慈悲の心をもっていたことが見て取れるであろう。彼らは冷酷の名前を逃れようとして、ピストイアを破滅するに任せた。それゆえ、君主たる者は、おのれの臣民の結束と忠誠心とを保たせるためならば、冷酷という悪評など意に介してはならない。なぜならば、殺戮と掠奪の温床となる無秩序を、過度の慈悲ゆえに、むざむざと放置する者たちよりも、一握りの見せしめの処罰を下すだけで、彼のほうがはるかに慈悲深い存在になるのだから。なぜならば、無秩序は往々にして住民全体を損なうが、君主によって実施される処断は一部の個人を害するのがつねであるから。
チェーザレ・ボルジアとは日本で言えば織田信長のような人である。チェーザレ・ボルジアは韓非子の言う「小さな誠実さ」を犠牲にして「大きな誠実さ」を実現した人である。マキャベリの表現は少々苛烈であるが、一理あると言ってよいだろう。
③型の人はすぐれているが④型の人のように偉大にはなりきれていない。④型の偉大な人は「大きな誠実さ」と「小さな誠実さ」を同時に行えるため、「小さな誠実さ」を犠牲にする必要がない。
ここで大きな誤解が生じる可能性がある。③型の「すぐれた人」は大きな目標を持つため、小さな誠実さを犠牲にすることがある。ここまでは正しい。しかし一部の人はさらに進んで、「偉大な人」は「すぐれた人」より、もっと偉大な目標を持つため、偉大であればあるほど、小さな誠実さはすべて犠牲にするはずだ、という考えである。
実際には違う。③型の「すぐれた人」から④型の「偉大な人」に移行すると偉大な人は大きな誠実さを実行しながら、小さな誠実さも同時に実行できるため、周囲から見てもとても人間的な人になる。なぜならもともと③型の「すぐれた人」は、小さな誠実さを「仕方なく」あきらめた人であるから、小さな誠実さをも実行できる能力があれば、当然実行するからである。
『孟子』に次の言葉がある。
武力で道徳の代用をするものは覇者である。覇道は必ず大国でないとできない。 道徳によって仁政を行うのが王者である。王道は大国である必要ない。
覇者は③型に近い。武力を部分的に用いて世の中を正しい方向に導く。だから武力を持つ大国である必要がある。武力を部分的に用いてなかば強制して小さな誠実さを犠牲にする。それに対して王者は④型に近い。武力を用いなくても、他人を強制しなくても、世の中を正しい方向に導ける。だから大国でなくても王道は可能である。
しかし偉大になればなるほど、小さな誠実さや人間性は犠牲にされると考える人が時々あらわれる。典型がワーグナーである。「愛の力を諦める者だけが世界を支配できる」と言う。「諦める」とある通り、③型の人が小さな誠実さを仕方なく諦めることを連想させる。しかしワーグナーはさらに進んで③型より偉大な人は、人間性をすべて犠牲にするのだと考える。
実際にはイエスやブッダのように、③型よりもはるかに偉大な人たちは、小さな誠実さも同時に行える。しかしワーグナーはそれを勘違いし、真に偉大な人間は人間性を放棄するのだと考えた。
これに影響されて登場したのがヒトラーである。ワーグナーの思想は単純に間違えているのであるが、その偉大な音楽にのせてその思想が語られると、その思想が時代に大きな影響を与えてしまう。カイルベルト指揮の『ヴァルキューレ』に次の写真がある。ワーグナーに心酔したひとの表情である。
再度グラフを載せる。
B区間は偉大になるにつれ人間性が減少しているように見える。しかしもっと偉大になるとC区間となり、表面的にも人間性は回復し、さらに深まっていく。しかしワーグナーはB区間での人間性の減少が、もっと偉大になっても続くと考えた。グラフで示す。
要はワーグナーはB区間の動きがさらに上の区間でも直線的に続くと考えた。実際にはB区間からC区間に移行する時に、再度カーブを描き人間性が回復して深まる。ワーグナーは誤解したのである。
人は物事を直線的に考えがちである。自分が体験したことがこれからさきも同じ方向にさらにすすんでいくと思う。今までの人生の流れを見て、さらに同じ方向に一歩進める。自分が体験した時代の流れを見て、さらに同じ方向に一歩進める。たしかにそれが正しい場合が多い。8割方それで正しいと言える。
しかし、人生においても時代においても、曲がり角というものは存在する。時にゆるいカーブを描き、まれに急カーブもある。直線的に進むことしか知らない人は曲がり角を曲がれない。
分かりやすい例で言うと、料理をしているとする、シチューには塩が入っていない。それで塩を足す。10グラムが最も最適の塩分量だとする。10グラムでもっともおいしくなる。現在は0グラム。1グラム足す。少しおいしくなる。もう1グラム足す。さらに少しおいしくなる。さらに1グラム足す。もっとおいしくなる。人はここで「料理は塩を足せば足すほどおいしくなるんだ」と思う。直線的に考える。しかし10グラムの時点で、もっともおいしくなった後、さらに足し続けると料理はまずくなる。20グラムになるとからすぎて食べれたものではない。
料理の例は非常にわかりやすい例であるが、現実世界での問題はもっと複雑でややこしい。
近代ヨーロッパでの科学の始まりから、科学は全世界に広まり発展してきた。それに浸食されるように、宗教は後退していった。多くの人はその傾向が直線的に続き、さらに科学主義が徹底していくと考える。そして宗教は過去の遺物として消えていくと考える。科学がさらに発展していくというのは正しい。しかし時代はゆるいカーブを描く。宗教が復活し、科学と宗教のバランスが重要になる時代はくるかもしれない。
日本はかつて製造業で成功した。それから先も製造業をきわめていけば、発展すると考えた。直線的に考えた。しかしIT技術の発展で時代はカーブを描く。技術が重要であった製造業から、戦略を必要とするIT革命により、時代はカーブを描いている。もちろん引き続きものづくり、製造業は重要である。しかしそれだけでは足りなくなっている。現代日本人は曲がり角が苦手である。その点はまた記事をあらためて詳述したい。私が論文を書くのは、日本を良い国にしたいからであって、世界のことに口をはさむつもりはほとんどない。世界のことも論じるが、それは日本を良くするために必要だからである。文章も日本人向けに書いている。
ワーグナーはB区間を体験したはずである。大きな仕事をするためには、小さな誠実さを犠牲にせざるを得なかった。小さな誠実さを「仕方なくあきらめた」のである。そして偉大になるほどその傾向が直線的に続くと考えた。もっと偉大な人は人間性をすべて放棄すると考えたのだ。
ヴィトゲンシュタインは「人はこれまでこうなってきたから、これからさきもこうなるだろう、と言う。しかし道が曲がっていたらどうなるのだ。」と述べた。人がいかに直線的に考えがちであるかを指摘している。
続きはヒトラーはヒトラーによって説明できないをご覧ください。
■作成日:2024年12月2日
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