大きな誠実。小さな誠実。

『韓非子』に次の言葉がある。

書下し文
小忠を行うは大忠の賊なり。
小利を顧みるは大利の残なり。

現代語訳
小さな誠実さにこだわりすぎると、大きな誠実さを実現できない。
小さな利益に釣られると、大きな利益を失うこととなる。

非常に意義深い言葉であるが、場合によっては危険な言葉である。この言葉が意義深いのは、真理を言い当てているからであり、危険なのは真理の一部しか言い当てていないからである。

結論を表にする。

大きな誠実さ小さな誠実さ
偉大な人
すぐれた人
良い人×
劣った人××

「良い人」は周りの人たちに小さな誠実さを行える人である。素晴らしいことではある。しかし多くの人たちを救う大事業、大きな誠実さは行えない。

「劣った人」は大きな事業、大きな誠実さを行えないばかりか、周りの人たちへの小さな誠実さも行えない。これはよくない。

上の二つは分かりやすい。問題は「すぐれた人」である。すぐれた人は大きな誠実さ、多くの人たちに役立つ事業を行ったり、すぐれた作品を創ることができる。しかし事業を行う上で、他人への小さな親切という小さな誠実さをとるか、多くの人たちに役立つ事業をとるか、という二者択一を迫られることがある。その人は大きな誠実さをとる。その際、小さな誠実さは犠牲にされる。だから大きな誠実さには〇がつくが、小さな誠実さは△になる。このタイプの人は時に冷酷と言われる。上に引用した韓非子の言葉は、この「すぐれた人」の意見である。

最後に「偉大な人」がいる。ブッダやイエスは偉大であり、大きな誠実さを行う。しかし同時に隣人に対してもきわめて慈悲深く、小さな誠実さも行える。

「すぐれた人」はすぐれているが、「偉大な人」よりは劣るため、大きな誠実さと小さな誠実さの二者択一が迫られる。それに対し「偉大な人」は能力がもっと大きいため、小さな誠実さを犠牲にせず、大きな誠実さを実行できる。だから両方に◎がつく。

グラフで表す。グラフ①とする。





縦軸に偉大さをとる。上に行くほど偉大である。横軸に人間性をとる。右に行くほど人間的である。

①は「劣った人」である。偉大さも人間性もない。②は「良い人」である。人間的である。ただ偉大さはほとんどない。③が「すぐれた人」である。偉大な仕事をする。しかし大きな事業を実現するために小さな誠実さを犠牲にすることがある。そのため少なくとも「表面的には」人間性が「良い人」に比べて減少しているかのように見える。④は偉大な人である。偉大さと人間性を併せ持つ。

このS字カーブを描くグラフ①が本質である。しかしよく誤解される。

「良い人」は通常次のように考える。「良い人」は日常で他人に親切にし小さな誠実さを実践する。それはとても素晴らしいことである。しかし「良い人」はさらにすすんで、「すぐれた人」というのは、「良い人」自身が行う小さな誠実さを単純に大きくしたものだと考える。「良い人」が小さな誠実さを10行っていれば、「すぐれた人」はそれを100行うのだと思う。グラフで示す。グラフ②とする。





「良い人」は、「偉大であればあるほど人間性は単調に増加していく」と思う。直線的に増加すると思うのである。人は物事を直線的に考えたがる。しかし実際にはS字カーブを描くグラフ①が本質である。「良い人」はこれを理解できない。大きな事業を行うという使命感がない人はこれを理解できない。

浜崎あゆみの曲に次の歌詞がある。

いい人って言われたって、
どうでもいい人みたい。

浜崎さんのように売れっ子になると、すべてのファンの期待に応えることはできない。一部のファンの期待に沿えなくても、自分を貫く必要がある。「良い人」はここを理解できない。

逆に「すぐれた人」は大きな誠実さを実行するためには、小さな誠実さをすべて無視していいと考える人もいる。そして非常に冷酷になる。グラフで示す。グラフ③とする。ワーグナーが典型である。確かに途中までは、偉大さが増えるほど人間性は増加するが、途中から偉大さが増えるほど人間性を放棄すると考える。非常に危険な思想である。





たしかに小さな誠実さを犠牲にすることはある。しかしできる範囲で小さな誠実さを行うことも必要である。

グラフ①が正しいのであって、グラフ②やグラフ③は間違えている。多くの人はグラフ①の一部分のみを捉える。盲人たちが象を触る。象の鼻を触った人は、「象は細長い動物だ」と思う。耳を触った人は「象は平べったい動物だ」と思う。象の胴体を触った人は、「象は大きい筒のような動物だ」と思う。それに似ている。

続きは公のためのサイコパス。私利私欲のためのサイコパス。をご覧ください。

■作成日:2024年11月30日


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