エアリスと約束の地

4つ目の理念はエアリスの理念である。

エアリスは基本的には自分の理念を語らない。 ただ一人の古代種として約束の地とは何なのか、 星の生命である魔晄と古代種はどのように関係していたのか、 現代的に古代種の生き方を再現するにはどうしたらいいか、 何も語らない。

REMAKEでティファの「エアリスは知っているの?約束の地。」という質問に対し 「全然知らない。今は。」と答えている。 オリジナルでは「旅をして感じるの。ああここが約束の地だってね。」 と言っている。

エアリスは知っていても語るべきではない時期には「知らない」と言うことが多い。 クラウドと教会で再会したときもイファルナからもらったマテリアに関し 「何の役にも立たない」と言っている。 本当はホーリーを呼ぶために必要と知っているにもかかわらず。

約束の地に関しても直感的にはどういうものか捉えているが、 恐らくうまく言語化できないため語ろうとしていないのだろう。 たった一人の古代種として直感的に知っていることはあるが、 クラウドたちに説明しても理解されないため、 どこまで話していいか悩む場面は多い。

神羅のネオミッドガル計画に協力的ではないのも、 神羅の理念がエアリスの直観に反するからだろう。

恐らくエアリスには独自の理念があっただろうが、 それを現実化させるつもりがあったかどうかは不明だ。

彼女には差し迫った別の課題があった。 セフィロスを止めることである。 彼女はそれに全力を注いだ。そしてホーリーを唱え、 半ば達成したところでこの世を去った。

約束の地に関し私の考察を書いてみる。 FFVIIがどのような思想的背景に基づきつくられたかは知らないが、 例えば仏教的世界観として推測すれば次のようになる。

仏道修行を重ね、精神が高次の段階に進むと悟りの世界に至る。 その悟りの世界が約束の地となる。 具体的物理的場所と言うより、精神的な場所である。 「セトラが旅する」と言っても物理的な旅ではなく精神的な旅となる。

一神教的な意味での約束の地とすれば、 それは神の国の到来である。 メシアが地上に現れこの世を完成させ神の国とする。

仏教と一神教を折衷的に考えることもできる。 仏道修行により修行者の精神が高次の次元に達し、 その者は神に近づきメシアとなる。 そしてそのメシアにより神の国が実現するというわけである。

実はこれはセフィロスの計画に近い。 セフィロスは約束の地を実現しようとしていたのかもしれない。 しかしエアリスとクラウドに阻まれる。 もっともセフィロスは神となり支配者となった後、 その権力を人々のために用いたかどうかは不明だ。 過酷な支配者になった可能性もある。

エアリス自身はメシアとなる能力を持っていただろうか。 不明である。持っていたとしてもその実現の前にこの世を去った。 エアリスとセフィロスの二人がいなくなったことで、 約束の地の到来の可能性は完全に消えてしまったのである。

ライフストリーム自体が約束の地だという論者もいるが、賛成できない。 宗教的修行をする前の生の無意識は約束の地たりえない。 修行により浄化された後の世界でなくてはならない。 人々がライフストリームに触れても狂気を生じるだけだからである。 修行により高次の精神となった者が人々に触れると浄化が起きる。 これが約束の地のはずである。

しかしライフストリームを約束の地とする論者にも真理はある。 仏教的な「悟り」を約束の地にたとえる。悟りは我々凡人から遠いところにある。 修行によって悟りに近づかなくてはならない。 しかし仏教では一見矛盾するようだが悟りは最初からあるものだ、とも言う。 これが仏教の難しいところだ。

だから悟りは遠いところにあるという立場からすると、ライフストリーム自体では「なまの無意識」であり決して悟りではないと言える。 しかし悟りは最初からあるものだという立場からするとライフストリーム自体が悟りであり約束の地だと言えなくもない。

だからライフストリーム自体が約束の地だと言う論者は別に間違ってはいないのである。

もうひとつの解釈もできる。私はインドのバナラシを訪れたことがある。そこで人の命がそこからきてそこに還る「何か」がちらっと見えた気がした。それが「ライフストリーム」の意味であれば納得できる。私はバナラシで確かにその「何か」を見たが、それがいったい何なのか言葉で十分説明できない。しかしそれが「ライフストリーム」のような気もする。

4つの理念の中でエアリスの理念が最も共感できる。

エアリスはその理念を明かさなかったが、 古代種の生き残りとしての直観を持ち、 さらに隣人を愛するという気持ちも備えたエアリスは信頼できる。 REMAKE第12章でマリンやベティに接する姿は聖女かと思うほどだ。 「こんなやついないだろう(笑)」と頭の中で思いながらも 非常に感動してしまった。

もし彼女にセフィロスのようにメシアになる能力があったとしたら、 誰だって彼女を支持するだろう。

FFVIIファンが作品から受けた衝撃で一番大きいのはエアリスの死である。問題の場面。12:52~21:32をご覧ください。

実況者の涙は我々すべてのFFVIIファンの涙でもある。これによって私の心臓にエアリスという存在が、深く刻印されてしまった。だからリメイクで再びエアリスに会えた時の感動は尋常ではなかった。1:28~4:05をご覧ください。

2:56で一瞬オリジナルでのエアリスの死のフラッシュバックが入る。「未来を思い出す」というやつだ。実況者はそれで動揺している。実況者の言葉。「また会えたね」が原作を終えてからまた会えたね、という感じなんだけど。この言葉は我々ファンの気持ちを代弁している。

エアリスの死から受け取った衝撃の正体は何だったのか。私の解釈はもうすでに述べた通りである。偉大な計画を進めるセフィロスのような天才は他人の犠牲をいとわない。犠牲があってもそれより重要な計画を優先する。セフィロスは多くの人々の命を奪ってでも自分が神になろうとした。そしてエアリスはそれを阻止しようとしたためセフィロスに殺されたのだ。

エアリスの死による我々ファンの悲しみは、偉大な計画による大きな犠牲を阻止しようとした者たちの悲しみである。偉大な計画のためにどれだけの犠牲が許されるのかという問題でもある。それがFFVIIが我々につきつける問題と言える。もちろん製作者の意図がどのようなものだったかは分からない。解釈はファン個々人がどう感じどう考えたかを踏まえ、ひとりひとりが出すべき結論だ。作品は製作者の意図を離れて広がっていく。述べたのはあくまで私の結論である。

製作者の意図は私の解釈とは恐らく違う。製作者の意図についても述べておきたい。FFVIIファンなら誰でも知っていることではあるがFFVIIのプロデューサーの方は火事で母親を亡くしている。エアリスを殺したセフィロスはお母さんの命を奪った火事の人格化でもある。

次はセフィロスがクラウドの故郷を焼き払い人々を虐殺した時の動画。34:19~34:54をご覧ください。

炎の中へ去っていくセフィロスを見ると、セフィロスが火事の人格化だと分かるだろう。

エアリスの死でゲーム制作者側はプレーヤーを小手先の詐術で泣かせようとしているのではない。エアリスの死は製作者の悲痛の体験である。クラウドの言葉。「エアリスがいなくなってしまう。エアリスはもうしゃべらない、もう・・笑わない・・泣かない・・怒らない・・。おれたちは・・どうしたらいい?この痛みはどうしたらいい?指先がチリチリする。口の中はカラカラだ。目の奥が熱いんだ!」この言葉は製作者の本心の言葉である。

プレーヤーたちはその体験を部分的にではあれ共有しているのであって、製作者側に実体験があるからこそ、我々プレーヤーもこの体験に感動するのである。

私は男なので実況者さんのようには泣いたりしないが、このゲームが発売された25年前、心の中で同じように泣いた。

続きはクラウドの苦悩をご覧ください。


■上部の画像はガウディ
すごい曲線だ。

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作成日:2020/7/17

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