セフィロス 強靭な魂

 

わざわざ言わなくていいと思うが、 私には天才の世界観は分からない。 天才セフィロスを理解できない。 しかし日頃から孔子や老子など過去の天才たちにあこがれており 心理学や精神医学に若干知識があるので、 天才の心理学には学問的な興味がある。 常に研究している。

天才と精神病者には共通点があると言われる。 天才ニーチェは 「狂気はどこにあるか。 それを汝らに植え付けねばならぬのだが。」 と述べた。

ショーペンハウエルは 「天才は平均的な知性よりはむしろ狂気に近い」 と言っている。

クレッチマーの『天才の心理学』から引用する。 「天才には単なる才能のほかにダイモニオンが加わらなければならぬ。 そしてこのダイモニオンこそまさしく精神病質的要素と内的に密接な 関連を持つもののように思われる。 このデーモニッシュなものが、外見上説明しがたいものや 精神的特殊能力や非凡な思想と情熱など、 天才の本質とみなされるべきものすべてを包括しているのである。」

「単なる才能」とは例えば哲学者で言えば語学能力であり読解力であり論理展開能力である。 生物学者で言えば生物学に関する知識であり実験を正確に行う技術である。 画家で言えば筆の運び方や色の出し方などの技術。 クレッチマーはそれだけでは不十分だという。 それだけであれば有能な平凡人でしかない。 それプラス「ダイモニオン」が必要だという。「霊的なもの」と訳すべきだろうか。 これが狂気と関連があり「ダイモニオン」が天才の本質だと言っている。

それは正しいかもしれない。しかし天才と精神病者には決定的な違いがある。 それは本人が偉大かどうか、本人の精神の大きさ、これが決定的に違う。

無意識という「霊的なもの」との強い接触という現象が天才と精神病者に実は共通している。 しかし天才という偉大な精神においてはそれがインスピレーションになり、 貧弱な精神しか持たない平凡人においては精神崩壊となる。 天才セフィロスがライフストリームをインスピレーションとし、 平凡人クラウドが精神崩壊したのはその例である。

天才と精神病者は同じものを見ているかもしれない。 しかし見ている主体の偉大さが全く違うのである。 共通点はあるが全く別物である。

天才の心理学を知らない人は天才と精神病の共通点を否定したがる。 天才の心理の研究者は逆に共通点を強調したがる。 わたしは共通点はあるが全く別物だと考える。

クラウド自身も次のように述べている。 「でも、弱い人間は……俺のように 簡単に自分を見失ってしまう」

無意識と強く接触することで天才は常識にとらわれない偉大な発想を手にする。 平凡人が強く無意識に接すると精神病者となり常識が崩壊する。 それに対し健康な平凡人は常識にとらわれる。

「常識にとらわれない」と「常識が崩壊する」は少し似ているが全く違う。 少し似ているのは両者に無意識との強い接触という共通点があるからだ。 無意識は常識にとらわれない。 その無意識との強い接触で常識から距離をおくという点は確かに共通している。 しかし全く違うのは両者の精神の大きさと強さがまったく違うのだ。 天才は無意識に接触しても自分を失わずインスピレーションとする。 精神病者は自分を失い無意識に支配される。

セフィロスはライフストリームをただよって星のエネルギーを利用すれば神になれると知った。 「これだ!!」と思ったのだろう。 天才が無意識のエネルギーを感じ「これだ!!」と思うのと同じだ。

続きは星の生命とセフィロスをご覧ください。


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作成日:2020/7/17

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