攻めと守りを兼ねた中庸

私自身も「静かな退職」をしている。それは自分の思想つくることに専念するためである。私は他の記事でも、現代日本の問題は「地に足のついた分かりやすい生きた思想」がないからだと述べてきた。そのためには西洋思想と中国思想、現代日本の合成が必要だと述べている。

人によっては現代日本の問題の根本的原因の所在が分かったと思う人もいるかもしれない。そしてその解決の方向性もわかったと思うかもしれない。しかし私の文章を読んで、これで日本の問題が解決したと思う人はいないだろう。当然である。西洋思想、中国思想、現代日本の合成がまだできていないからだ。

「静かな退職」をしているのは、思想をつくるためである。人と交流すべきだ、と言う人もいるかもしれない。たしかにビジネスであれば、大きな仕事は人との交流から生まれるものだろう。しかし私が現在試みていることはビジネスではない。私は会社を経営していないし、何か特別な技術を持っているわけでもない。ビジネスについいて論じているため若干紛らわしいが、行っているのはビジネスではなく、あくまで思想である。

思想も人との交流は必要である。しかしそれは自分自身の思想の背景を広げるために必要なのであって、考えをまとめて、実際それを書く段階になると必要なのはむしろ静かな環境である。作家が小説を書くとき、静かで集中できるホテルに缶詰になるのと同じで、重要なのは静かな環境。

人と交流すれば、多くの人と交流するほど、思想の形成にさける時間と集中力は減り、パフォーマンスは大幅に下がるだろう。静かに思想を形成するのが最短ルート。リアクションが薄いと嫌われるが、嫌われるかどうかより、計画を優先すべきと思われる。

今現在は思想の構成を試みている。完成のめどはたっていないが、試行錯誤中である。静かに思想の形成に努めたい。

あと現代日本の問題で重要なのはビジネスだけだとは思っていない。もちろんビジネスは最も重要な分野のひとつではある。それは間違いない。しかし現代日本の生きた思想の欠如は日本のほとんどすべての分野で問題になっている。ビジネスだけではない。生きた思想を現代日本によみがえらせることができれば、すべての分野にその効果は波及する。明らかにこれが現代日本のボトルネックである。

特定の分野に特化するとその分野での効果は大きくなるが、他の分野に波及しない。仮に広く浅くとなってもいろんな分野に波及することを、目標としたい。

若い人たちは、「なんでもほどほどがいいや」と言う。はめをはずして極端なことをすると失敗する。だからほどほどがいいという。これはある意味正しい。しかしこれは消極的な中庸である。失敗しないための中庸。守りの中庸。若い人の一部には、失敗することを恐れてほどほどで良しとする人がいる。

私が提唱したい中庸は、失敗しないための中庸であると同時に成功するための中庸である。守りの中庸であると同時に、攻めの中庸。

「攻防一体」という言葉がある。ピクシブ百科事典から引用する。

「攻防一体」は攻撃と防御の機能や要素が一体化している状態を示す言葉である。 攻防一体を備えた武器は機能美が高く、武芸の攻防一体は達人の域に達していることが多い。

私が提唱したい中庸は攻めと守りを兼ねた中庸である。囲碁・将棋でも攻めと守りを兼ねた手というものがある。

「コスパ」という言葉を私も使う。しかし使い方が若い人とはおそらく違う。おっさんが若者言葉を使うと、若者からするとちょっと意味が違うということが頻繁にある。私もそのかっこわるいおっさんの例だろう。しかし若者の言う「コスパ」は浅い消極的な意味での「コスパ」である。私は「深い真理をいかに効率的に実現するか」という良い意味での積極性と良い意味での消極性を兼ね備えた意味で「コスパ」を使いたい。

「静かな退職」も、私と若い人では若干ニュアンスが違うと思う。若い人は消極的な意味で「静かな退職」をしている。日本経済の復興もあきらめて、頑張らなくてそれなりに楽しければいいやと思っている。私の場合は日本経済の復興を必ずしもあきらめていない。「静かな退職」をしているのは日本経済の復興のための思想をつくるためだと言ってもよい。楽しいことをしているので「頑張っている」という意識はない。恐らく若者たちも、「静かな退職」で自分の好きなことをしている人は、私と同じで「頑張っている」という意識はないのだろう。そこは共通している。だから共感する部分も多い。しかし日本経済の復興をあきらめているかどうか、その解決のために何かをしているかどうかは違うのだと思う。私の「静かな退職」は積極的側面と消極的側面の両方がある。

若い人たちに遠慮すべきだとは思わない。だから若い人たちの中庸について思ったことを述べた。しかし若い人たちの価値観を変えようとは思わない。若い人たちの価値観を無理にかえようとするのは、人為である。対症療法である。それだと物事はかえって複雑化する。

必要なのは彼らに真理を伝えることである。そうすれば彼らのあきらめは解消され、彼らの中庸は単に守りの中庸から攻めと守りを兼ね備えた中庸になるだろう。彼らの使う「コスパ」という言葉も浅い消極的な「コスパ」から、積極性と消極性を兼ね備えた深い意味での「コスパ」に変わるだろう。

真理を伝えるという本質的なことを行えば、若者の価値観を変えるという人為的なことを行わなくてよい。人為を行えば、問題は無駄に複雑化し、無理が生じ、副作用が生じる。本質的なことのみ行えば、物事はシンプルに、無理なく、自然にうまくいく。

『老子』第四十八章から引用する。

書下し文  
学を為せば日々に増し、道を為せば日々に損ず。
これを損じて又損じ以って無為に至る。
無為にして為さざる無し。

現代語訳  
学問をすれば知恵が日々増えていく。
道を修めれば人為が日々減っていく。
ひとつ減らしさらにもうひとつ減らしついには無為に至る。
無為にして全てを行える。

人為をひとつ減らし、さらにひとつ減らす。人為を減らすほど物事は自然にうまくいく。人為をすべて無くすと無為に至る。無為にしてすべてを行える。

この老子の考えは危険である。老子の危険性はそれが正しい点にある。正しいが偏っている点にある。たしかに人為をなくせば、物事はうまくいく。本質が見えるすぐれた人であれば、本質的な最低限を行うだけで、物事を自然とよくすることができる。しかし我々は本質をいつでも捉えられるわけではない。本質が分からないときは人為だろうと、いろんなことを試し、その過程で徐々に本質が見えてくるという場合も多い。

老子はその深遠さで人を魅了する。魅了された人は老子の無為を実践し、何もしない人になってしまう。実際中国の4、5世紀は、すぐれた人たちが老子に魅了され、「清談」を行い、何もしなかったため、混乱状態に陥った。

老子のように偉大さと偏りが同居している思想は危険思想になりえる。ワーグナーもその音楽の偉大さと思想の偏り、間違いが同居しているためヒトラーを生んだ。我々は老子の偉大さから学びつつも、老子の偏り、危険性を直視しないといけない。

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■作成日:2024年10月8日


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■上部の画像は熊谷守一「泉」

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