ヴィトゲンシュタインと言葉の使い方

ヴィトゲンシュタインは哲学上の争いは時に言葉の使い方をめぐる争いだと言った。 例えば私が家の近くにある郵便ポストと同じものを作ってどこかに設置したとしよう。作れたとして。 同じデザイン。同じ素材。それを物体Aと命名する。

物体Aは見た目的にも物理的にも家の近くにあるポストとほぼ全く同じである。 しかし郵便配達人は物体Aのところに郵便物の回収には来ない。機能的にはポストではない。 物体Aをポストと呼んでいいか。

BさんとCさんが物体Aがポストかどうかを議論している。 Bさんはポストだと主張しCさんはポストではないという。 ヴィトゲンシュタインに言わせるとこれは言葉の使い方の争いだという。 「ポスト」という言葉をどう定義するかによる。

「ポスト」を単に視覚的物理的に定義するのであれば物体Aはポストである。物理的には全く同じだから。 しかし機能的に定義するのであれば決してポストではない。配達員は回収に来ないから。 この争いは事実に関する争いではなく言葉の使い方の争いに過ぎないというのだ。

哲学上の争いも言葉上の争いである場合が一部あるとヴィトゲンシュタインは言う。 イエスの神性に関しては「神性」という言葉の使い方をめぐって争っているだけかもしれない。 イエスが①神の器であり②神とイエスは別主体という点はキリスト教もイスラム教も同意する。 事実に関しては同意しているのだ。

問題は「神性」の定義。神の器であるから「神性」があると言って良いというのがキリスト教の立場。 神の器だからと言って「神性」があると言ってはいけないというのがイスラム教の立場。 「神性」という言葉の使い方の争いと言っていいのかもしれない。

もっともその言葉の使い方が重要なのだと言われればそれ以上反論は出来ない。 物体Aだって今から手紙を出しに行く人に「あそこにポストがあるよ」と言ってはいけないだろう。 物体Aの機能的側面が問題になっているからだ。 しかし駅に行く道を尋ねた人に「あそこのポストの先の道を右に曲がると駅につくよ」と言うのはいいだろう。 物体Aの見た目が問題になっている。

言葉の使い方で物事がより正しく認識できるようになったり、 世の中が便利になったりということはあり得る。


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作成日:2020/12/07

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