神の器としてのイエス

私のイエス観を結論から述べる。 イエスは恐らく修行をし精神の拡大を経験した結果、神と接した。 そして「神の器」になったと考える。 図4のように神の一部がイエスの中で生きている状態である。 器に料理が並ぶようにイエスという器の上に神が降りたつ。 青い部分が神とイエスが重なった部分であり、 イエスの中で生きている神的な部分である。

イエスは自分が神だとは言わなかった。 しかしヨハネによる福音書14章10節にそれに近い次の記載がある。

私が父の内におり、父が私の内におられることを信じないのか。 私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。 私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。 私が父の内におり父が私の内におられると私が言うのを信じなさい。

父というのは神のことである。 この箇所は父なる神がイエスの中で生きていることをイエス自身が述べた箇所である。

ヨハネによる福音書14章6節に次のイエスの言葉がある。

私は道であり真理であり命である。私を通らなければ誰も父のもとに行くことができない。 あなたがたが私を知っているなら私の父をも知ることになる。 今からあなたがたは父を知る。いやすでに父を見ている。

ヨハネによる福音書14章9節に次のイエスの言葉がある。

私を見た者は父を見たのだ。

神自身がイエスの中で生きているためイエスを見た者は神を見たことになる。 イエスを知っている人は神を知っていることになるというのだ。

マルコによる福音書第2章5節に次の記載がある。

イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される。」と言われた。 ところがそこに律法学者が数人座っていて心の中であれこれと考えた。 「この人はなぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。 神おひとりのほかにいったい誰が罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは彼らが心の中で考えていることをご自分の霊の力ですぐに知って言われた。 「なぜそんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと 『起きて床を担いで歩け』と言うのとどちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

最後の「人の子」というのはイエスのことである。 イエスは中風の人の罪を赦すと宣言した。 ユダヤ教の律法学者の言う通り罪は本当は神自身しか赦すことができない。

しかしすでに引用したヨハネによる福音書14章10節に 「私が父の内におり、父が私の内におられる」とあった通りイエスの内で神が生きているとすれば、 イエスには罪を赦す権威がある。 「私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。 私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。」という言葉もあり、 罪を赦すという行為はイエスが行っているというよりも神自身が行っているのである。 そのため「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」というわけである。 イエスの言動は一貫している。

律法学者はそのイエスの言葉を聞いて 「この人はなぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。 神おひとりのほかにいったい誰が罪を赦すことができるだろうか。」 と言った。律法学者は「イエスのなかで神が生きている」とは信じていないのであるから、 その前提だと確かに「神を冒涜している」という結論になるだろう。 律法学者の主張も彼らなりに一貫していると言うべきだろう。

マルコによる福音書2章23節に次の記載がある。

ある安息日にイエスが麦畑を通って行かれると、 弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 パリサイ派の人々がイエスに「御覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはいけないことをするのか。」と言った。

27節に次の言葉が続く。

イエスは言われた。 「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから人の子は安息日の主でもある。」

安息日に仕事をしていいかどうかという論争である。 マルコによる福音書3章1節に次の記載がある。

イエスはまた会堂にお入りになった。 そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい。」と言われた。 そして人々にこう言われた。 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。 命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 そこでイエスは怒って人々を見まわし彼らのかたくなな心を悲しみながら、 その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。 伸ばすと手は元どおりになった。 パリサイ派の人々は出ていき早速ヘロデ派の人々と一緒にどのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

これも安息日に仕事をしていいかという点に関するイエスとパリサイ派の争いである。 安息日に仕事をしたくらいで殺されるというのは現代の我々から見ると極端だが、それには理由がある。 ユダヤ教の考えでは安息日は神が定めたからである。 イエスはそれを勝手に覆したわけであるからパリサイ派は激怒したのだ。

出エジプト記の20章は有名な十戒の記述であり8節からが安息日の記述である。 安息日の規定は十戒の一部である。引用する。

安息日を心に留めこれを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事をしてはならない。 あなたも息子も娘も男女の奴隷も家畜もあなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 六日の間に主は天と地とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、 主は安息日を祝福して聖別されたのである。

要は安息日は神自身が定めたのである。 それを覆せるのは神自身だけである。 それをイエスが覆したのであるからパリサイ派が激怒したのもわからなくはない。 しかしイエスの中で神が生きているのであれば、 イエスではなく神自身が安息日の規定を覆したことになる。 「人の子は安息日の主でもある。」とあり、 「人の子」とはイエスのことである。 イエスの中で神が生きているからイエスには安息日の規定を覆す権威があるというイエスの主張である。 イエス、パリサイ派ともにそれぞれ主張は一貫している。 聖書の記載は一貫しているのがお分かりいただけよう。

マタイによる福音書11章27節に次のイエスの言葉がある。

すべてのことは父からわたしに任せられています。

イエスの中で神が生きているとすれば、イエスは神の代理人と言えるのである。

続きは神とイエスは別主体をご覧ください。


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作成日:2020/12/07

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