理想と現実のバランス

世の中を変革するときに思想がリードして変革してもうまくいかないという意見がある。たしかにマルクス主義は思想がリードして世界を変えようとして、現実で失敗した。非常に重要な指摘である。

マルクス主義は失敗した。しかしマルクス主義が指摘した資本主義の欠陥は事実であって、その指摘は正しい。資本主義が成功したと言われるのはマルクス主義の指摘を受け入れたからである。例えば日本の労働基準法は、何時間働くと何分の休憩をとらなくてはならないとか実に細かい規定があり、休憩の取り方まで法律で最低基準が決まっている。大規模ショッピングセンターをつくるときの条件なども、周辺の住民への騒音などに関する配慮があり細かく法律で決まっている。日本は社会主義ではないかと思うくらいである。社会主義の指摘した資本主義の欠点は全く正しいのである。

思想が現実を無視して失敗した例はマルクス主義以外でも歴史を見ると多々ある。ウッドロー・ウィルソンは長い目で見ると歴史に大きな影響を与えたが、短期的に見ると理想に走りすぎたため現実では必ずしもうまくいかなかった。孟子は思想家としてはすぐれていたが、孟子の思想通りに実行する人がいたとしてもうまくいかなかったはずである。

マルクス主義のように大きなスケールではなくても似たような事例は良く生じる。理想家や理論家が現実で失敗するというのはよくある。三国志でも馬謖という理論にすぐれた人が、兵法書に書いてある通り、山の高いところに陣取ったところ、学問は一切ないが現場では百戦錬磨の敵の武将に水の補給を切られて負けてしまったという例もある。

多様で複雑で混沌とした現実から理論はひとつの側面をピックアップして抽象化し単純化し「Aの場合はBとなる」と定式化する。しかし現実では理論で扱わなかった多くの要因が作用するため、実際に実践すると理論通りにならないという事が頻繁に生じる。

馬謖は高い山に陣取った。高い位置にある軍隊が低い位置にある軍隊より有利だという兵法書の理論に従った。その理論は確かにその点に関しては正しい。高い位置の軍が接近戦で有利というその点だけを取って考えれば正しいのだ。しかし現実ではほかの要因も重要である。敵の武将は馬謖の水の補給をたち切ることで馬謖に大勝した。理論で扱われなかった要因で馬謖は敗北した。理論に固執して失敗する例は、理論で扱わないほかの要因を考慮に入れないことによる失敗が非常に多い。

■2025年4月7日追記。

サムエル・モリソン『アメリカの歴史』の第二十二章に次の記述がある。

ジョン・アダムズおよびエドモンド・バークは、かつてジョン・ディキンソンが述べた「経験こそがわれわれの唯一の導き手でなければならない。理性に頼ると道を踏み誤らないともかぎらない」という言葉に含まれている教えに信を置いていた。

ウィキペディアから引用する。

ジョン・ディキンソン(John Dickinson, 1732年11月8日 - 1808年2月14日)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家。アメリカ独立戦争において大陸軍の指揮官を務め、大陸会議ではペンシルベニア邦とデラウェア邦の代表を務めた。

実際には理性も重要ではあるが、ディキンソンによると理性より経験的判断を優先すべきということである。『アメリカの歴史』の記述は次のように続く。

そして事実、理性は長いあいだ人間 - 特に共産主義者 - を誤った方向へと導き続けてきたのである。 ジェファソンの時代から1世紀以上経過した二十世紀の前半にエリヒュー・ルートは次のように語っている。「純粋な理性を実際的な問題に応用するのは非常に難しい。なぜならば、理性ばかりに頼って推論を下そうとしても、結論を成立させるのに必要な前提条件のすべてを設定することは・・決してできないからであり、したがって、理性派の眼にとまらなかった諸条件が、結論にどのような形で影響することなるかを、経験を通じて感得している・・実際家が本道を誤たずに進んでゆくのに対して、優秀な知性を備えた理性派が誤った道をたどってしまうような事態がしばしば生じることになるのである」

ウィキペディアから引用する。ウィキペディアでは「エリヒュー・ルート」は「エリフ・ルート」と表記してある。

エリフ・ルート(Elihu Root, 1845年2月15日 - 1937年2月7日)は、アメリカ合衆国の法律家・政治家である。ウィリアム・マッキンリーとセオドア・ルーズベルト政権にて41代目アメリカ合衆国陸軍長官及びセオドア・ルーズベルト政権にて38代目アメリカ合衆国国務長官を務め、1912年にノーベル平和賞を受賞した。

「理性ばかりに頼って推論を下そうとしても、結論を成立させるのに必要な前提条件のすべてを設定することは・・決してできない」とあるのは、私の表現で言うと「現実では理論で扱わなかった多くの要因が作用するため、実際に実践すると理論通りにならないという事が頻繁に生じる」となり、内容は一致する。

ルートの言葉を馬謖の例でパラフレーズすると「高い位置にある軍隊が低い位置にある軍隊より有利だという兵法書の理論ばかりに頼って推論を下そうとしても、いくさの勝敗という結論を成立させるのに必要な前提条件のひとつである水の補給をその理論は設定できなかったため馬謖は失敗した」となる。

それに対して馬謖の敵である将軍は、学問はないが現場たたき上げの有能な将軍であり、理論家ではなく実際家である。実際家は「理性派の眼にとまらなかった諸条件が、結論にどのような形で影響することなるかを、経験を通じて感得している」とルートはいう。馬謖の敵将は「理論派の馬謖の眼にとまらなかった水の補給という条件が、勝敗という結論にどのような形で影響することになるかを、経験を通じて感得していた」のである。

ルートの言う通り「実際家が本道を誤たずに進んでゆくのに対して、優秀な知性を備えた理性派が誤った道をたどってしまうような事態がしばしば生じることになるのである」。馬謖は非常に優秀な人物であった。しかし誤った道をたどった。それに対し馬謖の敵将は本道を誤たずに進んでいったのである。

歴史を読むとこのような例は非常に多い。歴史は繰り返すのか、何度も同じような例が生じる。現代でも理論家である哲学者が会社の社長になれば、その会社はほぼ間違いなく倒産すると言ってよい。

■追記終。

思想が先行すると現実で失敗するという例は確かにたくさんある。思想は後付けの理論であり先行すべきではないとする意見はよく分かる。

しかし思想が先導してうまくいった例はある。たとえばルターの宗教改革はルター個人の思想から始まってヨーロッパに広がった。たったひとりの思想により、信仰の深まりがヨーロッパ中で生じた。

諸葛孔明の治世も同じ。孔明は明らかに中国伝統思想を体現していた。そしてそれに基づいて素晴らしい治世を実現した。

世の中の動きは複雑系的に生じる。複雑系は「カオスの縁」で生じる。秩序と混沌の間である。要は思想という秩序も世の中の変化において一定の役割を果たす。たしかに思想がリードしすぎてはいけない。正しい変化は思想が部分的にリードしながらも、なかばカオス的に自然発生的に生じる必要がある。創発である。

思想の専制はうまくいかない。思想がリードしすぎず、リードしなさすぎず、秩序でもないカオスでもないどこかちょうどいいバランス型中庸が執れた時に、正しく社会が動くのだと思われる。秩序と混沌のあいだである。

ルターは思想でヨーロッパを先導した。しかし彼は専制的権力を持たなかった。だから彼の思想が専制的になることはなかった。意図せずしてちょうどいいバランスが結果し、カオスの縁が実現し、社会が正しく変化したと思われる。共産主義は権力を持ったため思想の専制となり、カオスの縁たりえず失敗したと思われる。

孔明は半ば専制的であったが、彼は思想家である以上に政治家であり、思想の専制にならぬよう現実を見ながら適切に対処したからうまくいったのだと思われる。もしかしたら孔明は秩序と混沌のバランス型中庸ではなく、部分的にではあれハーモニー型中庸を実現していたのかもしれない。だから専制的であっても理論倒れにならなかった。

『大宰相』という日本戦後政治史についての本に鳩山一郎の言葉として次の言葉がある。

政治は、現実だからな。今、国益によいことは現実的に行うのがよいのだ。そうしながら理想に近づいていくのが、党人というものさ。

この言葉が、思想が現実無視に陥らないための要諦である。

現代のビジネスも秩序と混沌のバランス型中庸を行っている。ある商品開発者が商品をつくるとき「これこれこういう理由でこの商品は売れるだろう」と考える。これは若干理論に近い。そして実際に販売する。そのとき市場という予測のつかない行動をするものに商品の未来はゆだねられる。理論通りに売れるかもしれないし、理論通りにいかないかもしれない。市場が混沌の役割をする。

商品開発者の「理論」がリードしているようで実は市場の「混沌」がリードしており、市場の「混沌」がリードしているようで実際は商品開発者の「理論」がリードしている。秩序と混沌のバランスがとれているため、ビジネスは理論倒れになりにくい。資本主義はいろいろ欠点や補うべき点はあれ大雑把に言うと機能している。

思想は重要だが、思想が専制的にならず現実のチェックがつねに入ることで、現実を無視するという思想の最大の欠点がその都度キャンセルされる。

最近歴史の本を読んでいる。哲学書であれば著者が優雅な理論を考えだし、自分に酔ったまま著述を終えるということがある。しかし歴史はその後も続く。その優雅な理論が混沌とした現実において実践にうつされ無残に失敗するという結果になりうる。哲学書だけを読むよりも歴史を読むことで現実のチェックまで含めて確認できる。

日本に思想を復活させるというのがうまくいくかは不明だが、仮にうまくいったとしてもそれが思想の専制に陥ってはいけない。思想が部分的にはリードしながらも、リードしすぎないというちょうどいいバランスが必要と思われる。ハーモニー型中庸はおそらく無理である。バランス型中庸をとるべきである。思想の専制になると仮に一時的にうまくいっても長期的に失敗するという結果になる。

ついでに言うと20世紀以降の現代の大学哲学は思弁的に過ぎて世の中を良くするのに適していない。昔の哲学や現代のビジネス思想などのほうが適していると思う。

■2025年4月8日追記。

要は理想と現実、理論家と実際家がそれぞれ役割を果たし、越権しなければ、うまくいくということなのだろう。具体的には理想家、思想家が理念と方向性を与え、ビジネスマンなどの実際家がそれを一歩づつ現実的に実現していくというところだろうか。

方向だけを示すべき思想家が現実に介入して失敗する例は多い。馬謖の例だ。逆に現実を変えるエネルギーはあるが、正しい方向性を示す理念を持たず最終的に失敗する例も多い。黄巾の乱や平将門の乱である。それに対し理念と現実の両方を備えた曹操や源頼朝のような人々は正しく世の中を動かす。片方しか備えていない人は不要かというとそうではない。理想と現実のいづれかの役割を果たし越権しないことで、世の中に貢献できる。理想と現実の分業は可能である。

■追記終。

■2025年4月15日追記。

経済学も理論的学問である。経済学者が国の大統領や首相などに、経済に関する進言をし、「こうすれば経済は良くなりますよ」と政策を提案することがある。しかしその政策を実行しても現実ではその通りにならない場合が頻繁にある。これも現実が理論通りに行かないことの一例である。経済理論だけに精通しても、すぐれた経済学者、偉大な経済学者にはなれない。ケインズに次の言葉がある。

経済学の研究のためには、非常に高度な天賦の才といったものは必要ない。経済学は哲学や自然科学に比べればはるかに易しい学問といえるだろう。にもかかわらず優れた経済学者は非常に稀にしか生まれない。このパラドックスを解く鍵は、経済学者がいくつかの全く異なる才能を合わせ持たなければならない、という所にある。彼は一人にして数学者であり、歴史家であり、政治家であり、哲学者でもなければならない。個々の問題を一般的な観点から考えなければならないし、また抽象と具体を同時に兼ね備えた考察を行わなければならない。未来のために、過去に照らし、現在を研究しなければならない。

すぐれた経済学者であるためには、数学者であり哲学者である必要があると言う。数学により厳密で正確で本質的な理論を構築できる。哲学者であることで大局的で深遠な、そして数学とは別の意味で本質的な理論が展開できる。

ケインズは、それだけではなく、すぐれた経済学者であるためには、歴史家であり政治家である必要もあると言う。単なる理論家であるのではなく、実際家でもあるべきだという意味であろう。実際家であることを兼ねないと、その理論は現実でうまくいかない。ルートの述べた通り「理性ばかりに頼って推論を下そうとしても、結論を成立させるのに必要な前提条件のすべてを設定することは・・決してできない」からである。さらに、実際家は「理性派の眼にとまらなかった諸条件が、結論にどのような形で影響することなるかを、経験を通じて感得している」。ケインズが世界を救えたのは彼が理論家であるとともに実際家でもあったからであろう。

理論と実際のハーモニー型中庸、抽象と具体のハーモニー型中庸が必要である。ケインズの言葉で言えば、すぐれた経済学者であるためには「いくつかの全く異なる才能を合わせ持たなければならない」のであり、「個々の問題を一般的な観点から考えなければならないし、また抽象と具体を同時に兼ね備えた考察を行わなければならない」からである。ハーモニー型中庸はきわめて困難であるため、すぐれた経済学者は稀にしか生まれない。偉大な経済学者はケインズ自身とアダム・スミスだけであるという人もいる。

理論と実際のハーモニー型中庸を行える人は稀にしか現れない。しかし稀に現れる。歴史を読んでいると机上の勉強をして、何の経験も積んでない状態で現実世界に参入し、いきなり成功する人が稀に現れる。諸葛孔明や大村益次郎、ナポレオンなどである。こういう人たちは理論と実際のハーモニー型中庸ができる人たちである。わたしにはとてもできない芸当である。

■追記終。

■2025年4月17日追記。

理論は後付けで過去の出来事を分析することはできるが、未来を予測することはできないと言われる。

ルートの述べた通り「理性ばかりに頼って推論を下そうとしても、結論を成立させるのに必要な前提条件のすべてを設定することは・・決してできない」からである。条件の全てを列挙できないから、未来を予測することはできない。しかし過去の出来事であれば、その出来事が生じるに至るための条件をたやすく列挙できる。だから後から分析はできるのである。

未来を理論で予測しても、私の言葉で言うと「現実では理論で扱わなかった多くの要因が作用するため、実際に実践すると理論通りにならないという事が頻繁に生じる」ため予測は当たらない。しかし過去の出来事であれば、その出来事が生じるためのほぼすべての要因をたやすく列挙できる。だから後からクールに理論で分析できるのである。

■追記終。

■作成日:2024年11月30日


■上部の画像は葛飾北斎

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