思想は難しい。難しい思想が悪いとは言わない。本来どうしてもわかりやすくできない思想というのはどうしても存在するし、また分かりにくい思想に接することで、自分に分からない思想があると認識できる。しかし本当に日本を良くするのであれば、分かりやすい思想がどうしても必要である。
日本で出版されている思想の関係書は全部とは言わないが大雑把に言って以下のどちらかである。ひとつは専門家による専門家のための哲学書。もうひとつは書籍販売というビジネスの売り上げのための哲学書。専門家による専門家のための哲学書は深みはあるかもしれないが、難解にして門外漢が読んでもよく分からない。ビジネスの売上のための哲学書は読んで分かるかもしれないが内容があまりない。
必要なのは深い内容を持った分かりやすい思想書である。難しい思想を語れば、語っている人が頭のいい人だということを示すことはできる。しかしそれで日本が良くなることはない。理解できない思想は血肉化することはないからである。分かりやすく普遍的な思想が我々の中に浸透し、血肉化したときにはじめて日本の中で生きた思想が生れる。
ゲーテに次の言葉がある。
すべて巨大なものは、崇高であると同時に理解しやすいという、一種独特な印象を与えるものである。
深みがありながら分かりやすい、そういう思想をつくるべきである。
ミスチルの歌に次の歌詞がある。
太陽系より果てしなく、
コンビニより身近な、
そんなlalala、そんなlalala
探してる。探してる。
同じことを述べている。
鈴木大拙『日本的霊性』から引用する。
宗教は上天からくるともいえるが、その実質性は大地にある。霊性は、大地を根として生きている。萌え出る芽は天を指すが、根は深く深く大地に食い込んでいる。
高遠な思想は天のようである。哲学古典の思想は、もしかしたら天のようなのかもしれない。それに対して我々一般人は大地である。本当に日本全体で生きた思想が生まれるためには我々一般人という大地に根を持つ思想が生まれないといけない。そうしないと本当に生きた思想は生まれないのである。
さらに引用する。
天日は有難いに相違ない。またこれなくては生命はない。生命はみな天をさしている。が、根はどうしても大地におろさねばならぬ。大地にかかわりのない生命は、本当の意味で生きていない。天は畏るべきだが、大地は親しむべく愛すべきである。大地はいくら踏んでも叩いても怒らぬ。生れるも大地からだ。死ねば固よりそこに帰る。天はどうしても仰がねばならぬ。自分を引き取ってはくれぬ。天は遠い。地は近い。大地はどうしても母である、愛の大地である。これほど具体的なものはない。宗教は実にこの具体的なものからでないと発生しない。霊性の奥の院は、実に大地の座にある。
思想は大地に根付かないと本当に生きた思想にならない。我々一般人に根付く必要がある。
話がそれて聖書の話になるが、旧約聖書の神は裁きの神であり畏るべき神である。しかし新約聖書の神は愛の神である。それは新約聖書では、「天」なる神が、人間であり「地」なるイエスに降り立ったため、神は鈴木大拙の言う「恐るべき天」という性質と同時に「親しむべく愛すべき地」という性質を兼ねて持つようになったからである。イエスは人であり神の器であるからである。太陽の光は大地がそれを受けてそして大地を通して我々は暖められる。同様に天なる神の愛は地なるイエスを通して人々に伝わったのである。
働く日本人のほとんどはビジネスマンである。だから日本が元気になるというのはビジネスマンが元気になるというのとイコールである。少数のすぐれた科学者やすぐれた小説家が現れることももちろん大切である。しかしそれ以上に大切なのはわれわれ一般人が、良い仕事をすることである。例えばコールセンターでも10人のエース級のオペレーターを育てるより200人の普通のオペレーターのレベルを底上げをしたほうが全体の効率は飛躍的に上がるという。柳宗悦『南無阿弥陀仏』から引用する。
民芸というのは、一般民衆の手で作られ、民衆の生活に用いられる品物のことである。別に名だたる名工の作ったものではなく、いわば凡夫の手になったものということが出来る。作られた品物も普通の実用品で、数多く作られる安ものであるから、品物としては下品のものである。しかしそれらの品々に極めて美しいもの、健康なものが数々見出された。いわば大した往生を遂げ、成仏しきった品物があるのである。
「名だたる名工」は芸術家である。民芸は芸術家の作品ではない。普通の人の作品である。しかしそういう人が非常にすぐれた作品をつくることがある。そして普通の人がすぐれた作品をつくるような社会こそが社会が豊かな証拠であり、社会が生きている証拠である。われわれがつくるべきはそのような社会である。ではどうすればいいか。さらに引用する。
それには何が必要か。一般の人々の不断の暮らしの中に、美しさが浸み込んで行かねばならぬ。特殊な品だけが優れていても、美の王国は現れぬ。それゆえ、数ある平凡な民器にこそ救いが行き渡らねばならぬ。いわば品物における衆生済度が果たされねばならぬ。
「特殊な品」とは芸術作品である。天才がつくった芸術作品がすぐれているのはもとより素晴らしい。しかし平凡な人々の作品にうつくしさがいきわたらないと本当に優れた時代にはならないのである。民芸ではなく思想に関して言えば、一部の専門的思想家だけではなく、一般のビジネスマンに良質な思想が浸み込んでいかないと思想的にすぐれた時代にはならない。スマップの『たいせつ』という曲に次の歌詞がある。
真実は人の住む街角にある。
現代においていろんな土地をさして「ふた昔ほど前の○○はとてもきれいだった」と言われることがある。世界中で言われるので現代は各地のすぐれた伝統が徐々に失われていっている時代なのかもしれない。
シチリア島は行ったことがないが、手元にあるシチリア島の音楽CDの解説によると、ふた昔ほど前のシチリア島は物乞いがうたう歌も、とてもうつくしい音楽になっていたという。日本の各地もふた昔ほど前はとてもきれいだったとよく聞く。
『言志晩録』に次の言葉がある。
書下し文
物、所を得る。これを治と為し、事、宜しきに乖く。これを乱と為す。なお園を治むるがごときなり。樹石の位置、その恰好を得れば、則ち朽梼敗瓦も、また趣を成す。故に聖人の治は、世に棄人無し。
現代語訳
物がすべてあるべきところにあるのを「治まっている」と言い、事が正しいところにないのを「乱れている」と言う。これはあたかも庭を手入れするのと同じである。樹や石の配置がよろしきを得ていると、朽ちた切り株や破れた瓦でも、みな趣を添える。聖人の治める時代には捨てられてしまうものがない。
これも同じことを述べている。優れた時代には物乞いの歌もうつくしい。最後につけ足しておくと、世界で伝統が徐々に失われているのはすぐれた建築が平板な建築に置き換わっていっているからだろう。『ノートルダム・ド・パリ』でユゴーは次のように述べている。
ただ心配なのは、数世紀にわたって芸術にこのうえない沃土を提供してきた建築という古い畑の養分が失われてしまったのだろうということである。
ユゴーは19世紀に、しかも優れた建築が世界でもっとも残るパリにおいて、すでにこのように述べている。海外に行ってまず一番感動するのは各地の伝統的建築だろう。それが失われると芸術も民芸も失われかねない。
続きは現代日本の思想的矛盾をご覧ください。
■作成日:2024年11月30日
■上部の画像は葛飾北斎
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