表面的西洋化。内面的日本人。

ヨーロッパの伝統思想であれアメリカのビジネス思想であれ、東洋人である我々が学ぼうとすると最初はいいけど途中から消化不良になる。そういう経験はないだろうか。現代日本人は表面的には西洋化されている。明治維新からすでに160年近く経過しているからである。最初の西洋化からそれなりに時間が経っている。だから若いころ最初は西洋の思想や文化に強く惹かれる人が多い。

しかし表面的にしか西洋化されていないため西洋思想を表面的にしか吸収できない。だからだんだん消化不良になる。もちろん例外はある。西洋思想や文化を深く理解できる日本人は少数ながら確かにいる。しかしそれはあくまで例外である。

私は大学で西洋哲学を学んだ。最初の4年間は面白くて夢中になって勉強した。しかし途中から西洋思想がそれ以上血肉化しないのに気付き始めた。「あれっ?何か違う。これ以上血肉化しないぞ?」と思ったものだ。そして大学をやめて、その後独学で中国思想を勉強した。中国思想は深く理解でき自分の血と肉にすることができた。それは深いところでは日本人は伝統的日本人であり東洋人であるからだ。

要は現代日本人は「アンパン」のようである。下図の通り、表面的には西洋化されている。アンパンが表面的には西洋のパンであるように。しかし日本人は深いところでは伝統的日本人である。アンパンの内部は日本伝統のアンであるように。

もちろん例外はある。日本人なのにかなりの程度西洋化されている人も少数いるし、逆にほとんど西洋化されていない人も時々いる。パンの厚さは個人差がある。しかしほとんどの現代日本人は上の図のようにアンパンになっている。

下図をご覧ください。

日本の伝統文化はそれぞれの部分が全体として調和している。和歌を学べば、歌舞伎への理解が深まる。日本史を学べば和歌への理解が深まる。仏教を学べば能への理解が深まる。相互に連関しあっている。紺色の液体のように目に見えない日本文化というものが各分野をつないでいる。

シチューのスープがジャガイモ、ニンジン、タマネギなどの各具材をつないでいるように、目に見えない日本文化が各分野をつないでいる。

下図をご覧ください。

同様に西洋の思想や文化も相互につながっている。西洋の芸術を知れば西洋の哲学の理解が深まる。西洋の科学は西洋の思想が背景にある。西洋のビジネスは西洋の芸術からつねに深いインスピレーションを得ている。

日本は幕末において本格的に西洋文明と接することになった。その時の日本人の文化観は下の図のようであった。

日本文化がありそれに対峙するように西洋文化が迫ってきていた。まだ本格的な接触はしていない。

現代日本の文化観はどうなっているか。私がいま持っている感覚を図示する。下図である。私のイメージなので、同じ日本人でも「こいつわけわからんことを言っている」と思う人もいるだろうし、「何となく分かる」という人もいるかもしれない。

まず右の日本の伝統文化は以前より縮小している。縮小しているが、もちろん伝統は確かに生きている。我々はこの伝統を大切にしなくてはならない。

しかし現在は大半の日本人は主に西洋に由来する分野の仕事についている。紺色の小さい円で示した科学者や実業家、思想家たちである。西洋の文明に学ぶ日本人は日本の伝統からも西洋の伝統からも切り離されている。

西洋の人たちは西洋文化の中で生きた仕事をしている。日本の伝統文化を学ぶ日本人は縮小したとはいえ日本文化の中で生きた仕事をしている。しかし西洋の思想文化を学ぶ日本人は西洋の伝統からも日本の伝統からも切り離される。

西洋人や伝統的日本文化に携わる日本人は自然の中に咲く草花のようである。しかし伝統から切り離された日本人は、能力のある人でも盆栽の中の草花のようである。能力がない人は切り花のようですらある。

西洋の人たちは西洋文化という生きた文化の中で仕事をしている。西洋では例えば科学者と芸術家や経営者と歴史家など異分野のひとたちがよく対話をするという。その対話の中から新しいものが生まれてくる。上の図でいうと水色の西洋文化によって、西洋の人たちは相互に連関しあっているからである。連関しあっているから異分野でも対話が成り立つのだ。

それに対して日本の科学者や思想家や経営者は対話をしない。それは日本の伝統からも西洋の伝統からも切り離されているため、それぞれの分野をつなぐ目に見えない「何か」が存在しないからである。対話をしないし対話をしても生産的対話になりづらいからである。

続きは上滑りの西洋化をご覧ください。

■作成日:2024年11月30日


■上部の画像は葛飾北斎

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