孔明は三顧の礼を以って劉備軍に迎え入れられて、おそらくすぐに劉備軍の武将たちの人柄を把握したはずである。 結局その武将たちが実際の仕事をするからだ。当時の軍事でも現在のビジネスでも各メンバーの性格は決定的に重要である。上司は部下の性格を把握する。
恐らく1か月もあれば日頃の言動から孔明は各武将の性格を大雑把に把握しただろう。そして先に述べたように孔明は関羽・張飛は完全には信頼できないと判断したと私は考える。 例えば先に引用した蜀書に「馬超は関羽に及ばない」という孔明のお世辞の手紙を関羽は大喜びして来客に見せびらかしたとある。 やや見苦しいとは思いわないだろうか。関羽は明らかに劉備軍の人の和よりも自分の名誉を優先しているのである。
軍事においても孔明の作戦より自分の名誉を優先する可能性がある。その証拠に外交において関羽は呉との友好より自分のプライドを優先し天下三分の計を挫折させたのである。 確かに孔明も関羽は劉備軍の重要な武将だと認識していたが、最終的には信用はしてはいなかったと考える。
張飛も短気であり、慎重さに欠けるため、重要な仕事を任せられない、と孔明は判断したはずである。
そして孔明は、自分自身の名誉より大義を重んじ、責任感が強く、実務能力があり、命令通りに動く趙雲が最終的に信頼できると考えたはずである。 そう考えた方が自然である。そのため恐らく孔明は趙雲を重要な局面で使い続けたのではないかと思う。
孔明の立場に立って考える。孔明は実際に実行した作戦以外にもいろんな選択肢を検討したはずである。 仮に非常に良い作戦を思いついても、武官たちが十分な仕事をしてくれない可能性があると判断した場合は、その作戦をやめにしたケースもあったと思う。
そういう意味では趙雲のような武将は孔明にとっては最も重要だったのではないだろうか。難易度の高い作戦でも統率力の高い趙雲がいれば実行できるからだ。 北伐の陽動作戦も趙雲がいなかったら採用できなかった可能性がある。 すなわち趙雲のおかげで孔明の作戦は選択肢が広がっているのである。孔明の作戦=蜀の作戦、であるから趙雲のおかげで蜀の作戦はより選択肢が増えたと考える。
趙雲が果たした役割を考えるうえで、私は今回の陽動作戦をほかの趙雲の仕事に対し類推適用したいと考えているのである。 今回の作戦は実は氷山の一角ではないかと思うのだ。
まず今回の陽動作戦が非常に重要な任務というだけでなく、極めて地味で歴史に残りづらい任務である点を確認する。 今回の任務で①敵将を捕える②敵軍を壊走させる③敵の城を落とす、などという派手な功績は期待できない。 武官の活躍で歴史に残りやすいのは以上の3つの活躍のうちどれかである。今回の任務ではそれらの可能性は全くない。 趙雲の任務は敵の大軍をつなぎとめるだけだからである。
今回の任務はたまたま馬謖の失敗で趙雲が優れた退却戦を演じなければならなくなったため特筆すべき仕事として歴史に残った。 しかしそれがなければ今回の役割は重要で本質的な仕事であったにもかかわらず、地味な仕事であるため本来歴史に残らなくても不思議ではなかったと考える。
私は趙雲はほかの場合、南荊制圧、ホウ統なきあとの蜀攻略、漢中戦、南蛮征伐でも同様に、この手の重要だが歴史に残らない役割を引き受けていたのではないかと思うのである。 要は趙雲の仕事のうちたまたま歴史に残った第一次北伐の趙雲の任務の性格を他の場面での趙雲の仕事に類推適用できるか、という問題である。 私は、歴史にたまたま残った第一次北伐の任務を観察すると、非常に重要で困難かつ地味な仕事であるため、 歴史に残らないほかの場面でも同様に同じような仕事をしていたのではないか、と考えるのである。第一次北伐を他の場面に類推適用するわけである。
おそらく趙雲は常に非常に重要な役割を担当し、孔明の作戦の中核にいたのではないかと推測する。 孔明の作戦は劉備軍の作戦であるから、趙雲は劉備軍の武官の最も重要な将軍だったという推測である。
孔明と趙雲の能力、価値観、性格などを総合的に考えると、二人の相性は非常に良い。 同じ価値観の下に信頼しあい、文官と武官という互いに違う能力で互いの不足を補いあっている。 文官の孔明が作戦を考え武官の趙雲がそれを実現する。強力なパートナーシップが成立する。
孔明の優れた作戦立案能力と趙雲の着実な実務能力=作戦実現能力を考慮し、 その彼らがどのように連携し、どのように仕事をすれば最も劉備軍のためになるかを十分考察し、自分の名誉より大義や国の利益を重視する趙雲の姿勢を考え、 孔明がその趙雲の姿勢を十分に理解し信頼していた点を考慮すると、趙雲を劉備軍の武官の中心と考える解釈は最も自然な解釈となる。 孔明はどの武将にどの仕事を任せれば最も効果的かを常に考えていたはずだからである。
趙雲は確かに大軍を率いる役目は受け持たなかった。張遼や関羽のように名将としては歴史に残っていない。一部将に徹したのである。 それは孔明が常に趙雲を手元に置いていたからである。恐らく孔明は意図的に趙雲と連携を取り、自分の作戦をいつでも効果的に実行できるようにしたのではないかと思う。
確かに関羽や魏延のような太守の役割は重要である。
関羽の荊州の太守の任務は極めて重要である。荊蜀は距離的・地形的に離れているので荊州を攻められてもすぐには蜀から救援には行けない。 荊州は基本的に独立して動かなくてはならないのである。さらに魏呉両国と接する土地でもある。太守が有能でないと荊州は保てない。 そして実際関羽は荊州を失ったのである。
魏延の漢中の太守はどうだろうか。確かに重要だが、魏延の仕事は曹操軍を防ぎとめるだけで十分だと考える。 成都と漢中はそんなに距離はないので蜀の主力が成都から漢中へ到着するまで防御をすればよいだけだからである。
太守の役割は重要である。しかしその役割を最終的には果たせなかった関羽より、趙雲の方が劉備軍に貢献しており、漢中の太守に過ぎなかった魏延より、 趙雲の方が重要であったと考えられないだろうか。 劉備の徳・孔明の知・趙雲の勇が劉備軍の中核であった可能性がある。
趙雲の受け持った仕事は極めて歴史に残りづらく、そのせいで趙雲伝は非常に短くなったのではないかと考える。 そもそも蜀書は短すぎる。裴注を含めても短い。趙雲が請け負ったであろう重要だが地味な任務は、たとえ記録が残っていたとしても、 蜀書を分厚くする意思がなかった陳寿は史書に載せなかっただろう。 さらに陳寿は戦闘シーンはあまり書かない。歴史に残りづらい趙雲の任務は陳寿の編集方針によりさらに残りづらくなっているのである。
趙雲別伝でも同様である。趙雲別伝の著者はおそらく趙雲の子孫かファンだろう。明らかに趙雲を称揚しようとしているからだ。 趙雲別伝の著者は趙雲が請け負っていたであろう地味な任務は、趙雲の名誉にならないと判断し記載しなかったと考える。
そのような仕事を請け負っていた趙雲は対外的にも有名にならなかったはずである。ただ国内では多少有名になったと考える。 「あいついつも面倒な仕事ばかり引き受けているな」という目で見られるからである。
続きは結論 趙雲論7をご覧ください。
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■作成日:2016/01/28