『趙雲別伝』がある程度あてになると考えたうえで趙雲の人物について確認し、以降の記述の前提とする。
趙雲は非常に豪胆な人物であった。長坂橋の戦いに関する『三国志』趙雲伝を引用する。
「先主(劉備)が曹公によって当陽県の長坂まで追撃され、妻子を捨てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主(劉禅)である。 甘夫人を保護した。どちらも危難を免れた。 『蜀書』趙雲伝
劉備本人でさえ妻子をあきらめた、というのはよっぽどの状況である。その状況で趙雲は戦場の中から阿斗と甘夫人を救い出した、というのは極めて危険な行動ではないだろうか。 責任感が非常に強いのと同時に、極めて勇敢であったとうかがわれる。
『趙雲別伝』での漢水の戦いにおいての趙雲の奮戦ぶりはすでに引用したとおりである。
さらに趙雲は自分自身よりも国の利益や大義名分を最重視する人物でもあった。 『趙雲別伝』で街亭の戦いで蜀が敗れた後、趙雲が後詰めとなりうまく退却し、道理を主張して絹の下賜を辞退した場面は引用したとおりである。
趙雲が国の理念や大義名分を重んじていたもう一つの例として劉備の呉討伐を諫めた場面が挙げられる。 関羽を殺されて烈火のごとく怒る劉備を趙雲は「国賊は曹操であって孫権ではありません。」と蜀の理念に基づき劉備を強くいさめたのである。
さらに彼は後漢末の人民の苦難を強く憂えていたようで、公孫サンに「公孫サンに従うのではなく、仁政を行う方に従う」と主張している。 乱世を終わらせるため、仁政をおこなう者が大義を有すると考えていたのである。 その考えは当時の心ある者たちの一致した考えである。 仁政を行う者こそが最終的には乱世を終わらせ人民を救うのであるから、仁政を行う者こそが正しい大義を持つのである。 『趙雲別伝』によれば、趙雲は自分の能力を自分の名誉や利益のために用いるのではなく、苦しんでいる人民を救うために用いたい、と考えていたようである。
先に引用したように孔明も非常に大義と道理を重視した。恐らく孔明と趙雲は同じ価値観を共有し、かなり強く信頼しあっていたと推測できる。 劉備軍においてこれほど大義と道理を重視する人物は二人の他に見当たらない。 大義と道理こそが国を正しくし人々に平和をもたらすという真理を深く認識している人物は劉備軍においては孔明と趙雲のみである。 互いに相手を自分の真意を理解する人物と考えていたはずであると私は考える。
孔明と趙雲が信頼しあっていたと裏付ける史実がある。第一次北伐が街亭の戦いで敗北になった後、趙雲が降格されている事実である。正史本文に記述がある。
趙雲と鄧芝の軍が弱小なのに対して敵は強力だったので、箕谷で敗北したが、しかし軍兵をとりまとめて守りを固め、大敗にはいたらなかった。 軍が撤退すると、鎮軍将軍に位を下げられた。
それに対して第一次北伐で同様な功を挙げた王平は昇進している。
諸葛亮は馬謖と将軍の張休・李盛を処刑し、将軍黄襲らの配下の兵を取り上げたのち、王平には特別に敬意をはらい、 参軍の官を加えてやり、五部の兵を統率させるとともに、軍営の仕事にあたらせ、討寇将軍に位をあげ、亭侯に封じた。 (『蜀書』王平伝)
同じように敗戦に際し、正しい処置を行い、軍兵をとりまとめた両者なのになぜ趙雲は降格で王平は昇進となるのか、明らかに不自然である。 常に賞罰に公平であるはずの孔明が、非常に不公平な処遇をしている。非常に疑問が残る。
孔明の立場に立って考えてみよう。常識的に考えればよい仕事をした趙雲を賞するのが自然な流れとなる。
すでに引用した『趙雲別伝』の該当箇所を思い出していただきたい。最初はやはり孔明は趙雲に絹を下賜しようとしたのである。 それが優れた退却戦を演じた趙雲に対する常識的な処遇でもある。しかし趙雲自身がそれを拒んだ。「負け戦なのになぜ下賜があるのですか。」と道理を重んじて辞退したのである。
恐らく趙雲は下賜の辞退だけではなくさらに自分の将軍位を下げてけじめをつけたいと申し出たのではないだろうかと私は考える。 そう考えないと王平が昇格したのに趙雲が降格した不自然さを説明できない。王平と趙雲の処遇のバランスがおかしいのである。 引用した正史本文だけの記述だけを読むとどうも腑に落ちない。しかし『趙雲別伝』の該当箇所を読むと非常に納得がいく。 やはり孔明は最初は趙雲を賞しようとしたのであり、そしてそれを趙雲自身が辞退したのである。その文脈から考えると将軍位の降格も納得がいくであろう。 孔明はそのような趙雲を信頼してその降格を受け入れたのである。 『趙雲別伝』の該当箇所を史実と考えた方が、全体が一貫し腑に落ちる。やはり『趙雲別伝』は何らかの史実に基づいて書かれている可能性が高い。
孔明自身も位を下げて責任を取ったのであるが、孔明と出処進退を共にしたのは趙雲だけだったのである。二人の強力な信頼関係が伝わってくる。
その際、趙雲が降格になるにあたり、趙雲自身にわだかまりが残ってはいけない。孔明と趙雲の深い信頼がないと、降格はできないのである。 趙雲自身が自分の将軍位よりも大義を重視している必要があり、さらに孔明がその趙雲の考えを十分理解している必要がある。
さらに読み取れる事実として私は恐らく趙雲は自分の将軍位にそれほどこだわってはいなかったのではないかと思う。
そして孔明が王平を昇進させているのは、王平に対しては趙雲ほど信頼していなかったと考えるべきであろう。王平を降格させれば、当然王平は納得しないからである。
上記で述べたように趙雲は非常に勇敢な武将であったが、しかし自分の名誉や自分の利益のためにその勇敢さを発揮する人物ではなかった。 彼が勇敢な行動に出るのは、大義名分のため、味方を守るためなど「責任感」にかられたときだけである。 特に必要がない場合には目立つ行動は控えていたふしがある。関羽・張飛のように自己顕示などを行う人物ではなかったのである。
それが正史に記述する内容が少なくなっている原因の一つかもしれない。大義のためには非常に豪胆な趙雲が、自分の名誉や利益のためには極端に控えめだったのである。 両極端な趙雲の二つの側面が趙雲の実像を分かりにくくしている。
続きは趙雲の官位~趙雲論4をご覧ください。
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■作成日:2016/01/28