『趙雲別伝』について~趙雲論1

1.初めに

 趙雲は正史においても関羽・張飛・馬超・黄忠と同列の伝がたてられている。重要な人物であったと推測できる。 にもかかわらず、正史では記述が非常に少なく、現存する趙雲に関する記述は『趙雲別伝』というあまり権威のない書物の記述が多くを占める。 さらに官位が上がらなかったためあまり重要な人物ではなかったという評価もある。

 趙雲は演義を読む人々の間で非常に人気のある武将であり、「趙雲は正史ではあまり重要な武将ではない」と聞くとがっかりして正史に興味を持たなくなってしまう趙雲ファンは非常に多い。

 しかし本当に重要な武将ではなかったのならば、なぜ関張黄馬と同列の伝が立てられているのか、など腑に落ちない点が残る。 他にも趙雲伝を読んでいて個人的には疑問が残る記述が散見される。当論文はそれらの疑問から出発し、正史における趙雲像のもう一つの可能性を論じていく。

2.『趙雲別伝』について

 『趙雲別伝』を読んでみると確かに大げさな印象が残る。趙雲が完全な人格者であるかのように書かれているからだ。 『趙雲別伝』は趙雲の子孫が書いたともいわれ、あまり信用のおけない書物であるというのが通常の理解である。私もその点は同意する。

 しかし『趙雲別伝』が全く根拠のない内容を書いているかというとそれも当たらないと思う。実際の例を挙げて説明する。 俗に趙雲は劉備と孔明の両方から信頼されたと言う。「俗に」というのはその根拠が『趙雲別伝』だからである。

 劉備が趙雲を信頼したと言われる根拠は、『趙雲別伝』で劉備が漢水での趙雲の奮戦ぶりを「一身これ胆なり」とその勇敢さをほめている個所である。 このあたりの『趙雲別伝』の記述は実際かなり大げさである。

曹公の軍が彼の陣営まで追撃してきた。このとき、ベン陽の長張翼は趙雲の陣営内におり、門を閉ざして防御しようとしたが、趙雲は陣営に入ると、 ふたたび大きく門を開けさせ、旗を伏せ太鼓をやめさせた。曹公の軍は趙雲に伏兵があるのではないかと疑い、引き退いた。趙雲の太鼓は雷のように天をふるわせて鳴り、 弩が背後から曹公の軍に発射されたので、曹公の軍兵は仰天して、互いに踏みにじりあい漢水に落ちて死ぬ者が多数あった。先主は翌朝、自ら趙雲の陣営にやってきて、 昨日の戦場を視察し、「子龍の身体はすべて肝っ玉だ」といい、日暮れまで音楽を演奏し、宴会を催して〔ねぎらっ〕た。

 一方孔明が趙雲を信頼したと言われる根拠は『趙雲別伝』にて街亭の戦いの後、趙雲が自分への絹の下賜を「負け戦なのに下賜があるのはおかしい」と道理を重んじて辞退し、 国のために使うよう進言したのを孔明が 大いに良しとした、という箇所である。

趙雲が軍需品の絹を残していたので、諸葛亮が彼の将兵に分け与えようとしたところ、趙雲は「負け戦だったのに、どうして下賜があるのですか。 この物資はすべて赤岸の蔵に収め、十月になるのを待って、冬の支度品として下賜されますように」といった。 諸葛亮はこれを大いに嘉した。

確かに『趙雲別伝』の記述は大げさな印象が残る。しかし私は劉備と孔明の趙雲のほめ方に一定の信憑性があると考える。

続きは『趙雲別伝』の信憑性~趙雲論2をご覧ください。

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■作成日:2016/01/28

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