趙雲は官位が高くなかった。趙雲の官位に関して不自然な点が2つある。
①関・張・黄・馬と同列の伝がたてられているのに、官位がひとりだけ極端に低い
②二二三年に極めて低い官位から急に一足飛びに征南将軍に引き上げられている
以上の2点を検討する。上記2点はやや不自然だと私は考える。
例えば①に関して次のように考えてみる。
「趙雲が関・張・黄・馬と同じ実力を持っていたと仮定」 →
「官位が極端に低いのが不自然」
「趙雲は官位通りの実力しかなかったと仮定」 →
「関・張・黄・馬と同列の伝がたてられているのが不自然」
どっちみち不可解となり、趙雲は謎の人だと言われてしまう。
そもそも劉備軍に限らないが、 いつの時代でも人が集まればライバル心・功名争いが常にある。馬超と関羽、黄忠と関羽の話などは有名なのではあるが一応引用しておく。 劉備や孔明にとっては常に悩みの種であったとうかがわれる記述である。
「関羽は、馬超が来降したことを聞き知り、もともと馴染みではなかったので、
諸葛亮に手紙を出して、馬超の人物・才能は誰と匹敵するかと尋ねた。
諸葛亮は、関羽が負けずぎらいなのを知っていたから、これに答えて、
「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり。
〔漢の〕黥布や彭越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、
やはり髯どのの比類なき傑出ぶりには及ばない」といってやった。
関羽は頬ひげがきれいだったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。
関羽は手紙を見て大喜びして、来客にみせびらかした。」
(『蜀書』関羽伝)
「先主は漢中王になり、黄忠を後将軍に起用するつもりであったが、諸葛亮が先主に申し出た、
「黄忠の名声人望は、もともと関羽・馬超と同列ではありません。それを今ただちに、
同等の位につかせようとしておられます。馬超・張飛は近くにいて、
自分の目で彼の手柄を見ておりますから、まだご趣旨を理解させることができましょうが、
関羽は遠くでこれを聞いて、おそらく喜ばないにちがいありません。
どうもよくないのではないでしょうか。」先主は、「わしが自分で彼に説明しよう」といい、
かくて関羽らと同等の官位につけ関内侯の爵をたまわった。」
(『蜀書』黄忠伝)
史書の記載は関羽と黄忠、関羽と馬超の話だけだが、 記載がなくてもこの手の問題は常にあったであろう。 劉備や孔明が常に武将たちの功名争いについて腐心していた様子が表れている。では趙雲は、武将たちの功名争いに関する劉備・孔明の苦心に気づかなかっただろうか。 常に孔明の近くにいた趙雲は当然気づいたはずである。武官たちの功名争いがあるのは仕方ないとしてもそれがエスカレートするのは実際かなり危険であり、 劉備と孔明は当然気を遣っていたはずである。そして趙雲自身も恐らくその点、深く心を痛めていたのではないかと私は思う。
「趙雲の人物」で論じたように、趙雲は自分の名誉より劉備軍全体の利益を重視する人物であったと私は考える。さらに 趙雲は公孫サンに語ったように自分の能力を自分自身のためではなく天下のために使いたいと考えていたと私は思う。 さらに趙雲は自分自身の将軍位にそれほどこだわってはいなかったのではないかと論じた。
それらを総合して考えると趙雲は関羽や張飛たちが存命の間はあえて高い官位をもらわず、関羽・張飛たちと争わないようにして劉備陣営の和に貢献しようとした可能性はないだろうか。 二二三年の趙雲の征南将軍への昇進の時点で関・張・黄・馬はすでに亡くなっている。 趙雲と功名争いができる人物がいなくなってからの昇進だったというわけである。 彼らがいなくなれば、趙雲が昇進しても角は立たない。魏延や李厳は趙雲と名声を争うほどの人物ではないという孔明や趙雲自身の判断である。
以上のように考えると、 ①関・張・黄・馬と同列の伝がたてられているのに、官位がひとりだけ極端に低い 。 ②二二三年に極めて低い官位から急に一足飛びに征南将軍に引き上げられている 。 という第一節で提起した不自然な2点が解決しないだろうか。
続きは趙雲の役割1~趙雲論5をご覧ください。
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■作成日:2016/01/28