劉備の理念

劉備の理念は漢の復興である。 我々は劉備が立てた国を「蜀」と呼ぶが、劉備達は自分の国を「漢」と称していた。 当然漢を引き継ぐという意味である。

劉備の漢復興の理念が本心だったかをその言葉と行動を突き合わせて確認していく。

その点に関し劉備の本心が決定的に表れるのは孫権遠征である。 孫権に関羽を斬られ劉備は激怒。孫権を遠征する。

『趙雲別伝』に趙雲がこれを諌止する場面がある。

孫権が荊州を襲撃したので劉備は大変怒り、孫権を討とうとした。 趙雲は諫めて「国賊は曹操であって、孫権ではありません。 しかもまず魏を滅ぼせば、呉はおのずから屈服するでありましょう。 曹操は死んだとはいっても、子の曹丕は簒奪をはたらいています。 それを怒る人々の心にそいつつ、はやく関中をわがものとし、 黄河・渭水の上流を根拠として逆賊を討伐すべきです。 関東の正義の志士は必ずや食料を持ち馬に鞭打って、 官軍を歓迎するでありましょう。」

趙雲の言う通り漢の復興という国是からすると討つべきは魏であって孫権ではない。 しかも曹丕は漢を滅ぼしたばかりであり、 劉備軍の理念からすると討つべきは魏である。

しかし劉備は孫権を遠征した。漢の復興という理念より関羽との人間的なつながりを重視したのである。 この行動から劉備は漢の復興を信じていなかったと結論してよい。

趙雲が劉備を諫めたのも後世の人々が劉備の言葉と行動を突き合わせ、 漢の復興という理念が本心ではないと判断されるのを恐れたからだろう。

劉備は曹操が漢にとって代わる理念を持っていたので、 単純にその反対の理念を掲げたのである。野党的理念だ。劉姓だったのが幸いした。

『蜀書』ホウ統伝引注『九州春秋』に次の劉備の言葉がある。

現在私と水と火の関係にあるのは曹操である。 曹操が厳格にやれば私は寛大にやる。 曹操が暴力に頼れば私は仁徳に頼る。 曹操が詐謀を行えば私は誠実を行う。 いつも曹操と反対の行動をとって事は初めて成就されるのだ。

劉備はつねに曹操を意識しており、 漢の復興を掲げたのも曹操の反対を行くためだった。

漢への忠誠を持ち続ける人もまだ一部いただろう。 そういう人々に訴えかける理念だったと言って良い。

曹操が暴力に頼れば私は仁徳に頼る。 曹操が詐謀を行えば私は誠実を行う。

と言っているが、では劉備の誠実さも単に曹操の反対を行くためのポーズだったかというとそれは違う。 それがよく分かるのが長坂の戦いの場面である。

荊州の人々は多く劉備に帰順した。当陽に着いたころには十余万の人々、数千台の荷物がつき従い、 一日の行程は十里余りにしかならず、別に関羽に命じ数百艘の船に分乗させ江陵で落ちあうことにした。 ある人が劉備に「すみやかに行軍して江陵を保持すべきです。いま大勢の人々をかかえているとはいっても、 武装しているのはわずかですから、もし曹公の軍隊がやってきたならば、どうやって抵抗するのですか。」 と言った。劉備は「そもそも大事を成し遂げるには、必ず人間を根本としなくてはならない。 いま人々が私に心を寄せてくれているのだ。私は見捨てて去るに忍びない。」と言った。

「大事を成し遂げるには、必ず人間を根本としなくてはならない。」というのは原文は 「済大事必以人為本」である。人間を「本」=「根本」とすると言うのだ。本末の思想が当時は常識だったのが分かる。

この場面に関し習鑿歯の評がある。

劉備は顛倒し困難に陥った時であっても、信義をますます明らかにし、状況が逼迫し事態が危険になっても、 道理に外れぬ発言をした。劉表の恩顧を追慕すればその心情は三軍を感動させ、 道義にひかれる人々に慕われれば見捨てず甘んじてともに敗北した。 彼が人々の心に結び付いた経過を観察すれば、いったい、どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、 苦い蓼を口に含み、民の病気を見舞った程度のことであろうか。 かれが大事業を成し遂げたのも当然であろう。

「どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、 苦い蓼を口に含み、民の病気を見舞った」というのは過去の偉人たちの民を思う故事である。 劉備はそれよりはるかに偉大だと述べている。 そして人心こそが「本」でありその「本」に基づいて大事業を興す「末」が実現されると述べている。 やはり本末の思想に基づいている。

困難に陥った時に人間はその本心や本性が表れる。 劉備は絶体絶命の危機にもかかわらず人を大切にした。 劉備の人への誠実は本心である。

そもそも十万人以上の人が一人の人物を慕ってついていくというのは、 古今東西の歴史を見てもなかなかないのではないかと思う。 普通権力者が落ちぶれたらみんな離れていくのが普通である。 なのに劉備の場合は一文無しになると逆にたくさんの人がぞろぞろ慕ってついてくるのだ。 劉備は危機にもかかわらず彼らを見捨てない。 「道義にひかれる人々に慕われれば見捨てず甘んじてともに敗北した。」との評。 劉備の偉大な徳が現れた非常に感動的な場面である。

孔子も人生で危機に陥ったことがある。 その時に発した言葉が『論語』に残っている。 述而篇第七に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、天、徳を予に生ぜり。桓タイ其れ予を如何せん。

現代語訳
孔子が言われた。天は私に徳をお与えになった。桓タイごときに私をどうできるというのか。

子罕篇第九に次の言葉がある。

書下し文
子匡に畏す。曰く、文王既に没し、文茲に在らざらんや。 天のまさにこの文を滅ぼさんとするや、後死の者この文にあずかるを得ざるなり。 天の未だこの文を滅ぼさざるや、匡人それ予を如何せん。

現代語訳
孔子が匡で大難に遭った。孔子が言われた。 文王はすでに亡くなられたが、その道は私が受け継いでいる。 天がこの道を滅ぼされるのであれば、後世の人たちはこの道を知ることができなくなってしまう。 後世の人々はこの道を知るべきでありそれが天の意思のはずだ。 天はこの道を滅ぼされるおつもりがない以上、匡人ごときが私を殺せようか。

孔子が殺されそうになった時の孔子の発言である。 孔子は日頃は謙虚すぎるほど謙虚な人であった。 しかし危機に陥った時、「周の文王が創始した道を受け継いでいるのは自分だけだ」という 孔子の正しい意味でのプライドと自尊心が表れる。

孔子の言葉の通り孔子がその危機を生き延びたからこそ 後世の私たちはその道を知ることができるのである。

日頃威張っていてもいざとなると逃げだす人もいるが、 孔子と劉備はその逆であり、二人の偉大さはその困難において証明されたと言って良い。

劉備は若い頃から豪傑たちと交わったとあり、 危機においても人を大切にし、 漢復興の理念より関羽との人間的つながりを大切にした。

劉備の理念はその本心においては、漢の復興ではなく人とのつながりであった。 現代では国の理念として人とのつながりを掲げてもいいのかもしれないが、 当時はそうではなかった。 もちろん人心を「本」=「根本」とする思想はあったし、人の生き方としては高く評価されたが、 国の理念にはなぜかならず、国の理念は漢にとって代わるか漢を復興するかの二択だった。 それで劉備は漢の復興を理念としたのである。

冒頭で『論語』為政第二の次の言葉を引用した。

書下し文
子曰く、その為す所を視、その由る所を観、その安んじる所を察すれば、 人、焉んぞ隠さんや。人、焉んぞ隠さんや。

現代語訳
先生が言われた。人の行いを見て、そのよって立つところを観て、 その安んじるところを察すれば、どうして人は隠し通せようか。 どうして隠し通せようか。

劉備の為す所はすでに指摘した。 彼は終始人とのつながりを大切にした。

「由る所」というのはその人がよって立つ根本的な動機であり、根本的な信念である。 劉備の由る所を観ると、 その根本的な動機と一貫する信念はやはり人とのつながりであった。 それがあったからこそ彼は大業を成した。

「安んじる所」というのは解説がいる。 人は他人といるときは緊張感があり自分を律しようとするが、 緊張感が取れた時、ふと素に戻る。 その状態が「安んじる所」である。 人には自然にしていて心地よい状態というものがある。 何をしているときが一番その人にとって自然かが 「安んじる所」と言ってよい。

劉備は若い頃から豪傑と交わるのを好んでおり、 それは生涯続いた。 関羽、張飛ら豪傑たちとのつながりこそが劉備の「安んじる所」だったのは間違いない。

「人、焉んぞ隠さんや。」という孔子の言葉はあたっている。

劉備は漢の復興という理念を信じていなかったという事実を隠せなかった。 しかし人とのつながりを大切にした劉備の偉大さも同じように隠せなかったのである。

漢の復興は信じていなかったとはいえ、 人とのつながりを信じそれを理念とし、 それにより大業を成した劉備の人生もまた曹操に劣らず 偉大で素晴らしい人生だったと言えるだろう。

続きは孫権の道義をご覧ください。


■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。



■上部の画像は熊谷守一「ノリウツギ」



■作成日:2020/11/2

■関連記事