曹操の理念と道義性を検討する。 曹操のもっていた理念は董卓の乱以前か以後かで違う。
二百十年の曹操の布告が『魏武故事』に載っている。 若い頃を振り返った記載を引用する。
国家のために賊を討ち功を立てたいと考え、侯に封ぜられ征西将軍となり、 その後で墓石に「漢の元征西将軍曹公の墓」と記されたいと望んだ。 これがその時の希望であった。ところが董卓の難に遭遇したので、正義の兵を起こしたのである。
董卓の乱以前は漢に忠義を尽くし漢の再興を理念としていたと述べている。 恐らく董卓の乱以後は漢にとってかわり天下を平定するのを理念としたと述べている。
以上の曹操の言葉がその行動と一致しているかを確認する。
「「漢の元征西将軍曹公の墓」と記されたいと望んだ。」とあるのは一見曹操一流の謙遜のふりのようにも見える。 しかし実際はそうとも言えない。
『曹瞞伝』に曹操が若い頃、洛陽北部尉という警察部長に任命されたときの記載がある。
太祖は尉の役所に入るとまず四つの門を修理させた。五色の棒を作らせ、門の左右にそれぞれ十余本ずつ吊り下げ、 禁令に違反する者がいると、権勢のある者でも遠慮せず、すべて棒でなぐり殺した。 その後数か月して、霊帝が目をかけていた小黄門の蹇碩の叔父が禁止されている夜間の通行を行ったので、 即座に殺した。洛陽では夜間外出が跡を断ち、禁令をおかす勇気のある者はなかった。 近習や寵臣たちはみな彼を憎んだが、しかしつけ込む隙がなかった。そこでいっしょになって彼を称揚し推挙し、 そのため昇進して頓丘の令となったのである。
法令が行われず権勢のある者が好き放題に振舞っていた後漢末のたるんだ状況を正そうとする曹操の熱い情熱が伝わってくる。 蹇碩の叔父が法に違反しそれを殺したというのは曹操自身にとって非常に危険な行為である。 自身の危険を顧みず命がけで権勢による支配を排し法による秩序を守ろうとしているのが分かる。 法による秩序の実現こそ当時後漢末に最も欠けていた道義であり曹操はその実現に命を懸けていたのである。
曹操というと奸雄のイメージが強い。 私は10代前半に羅貫中の演義を10回ほど読んだ。読みだすと止まらなくなりむさぼるように読んだのをよく覚えている。 演義では曹操は冷酷な奸雄であり、私もその影響で曹操といえば奸雄のイメージが強い。 しかし実際の曹操は冷徹な現実家であると同時に熱い理想家でもあった。 理想と現実の中道を行く人物だったのだ。 自身の命を賭してまで漢に正しい秩序をもたらそうとしていたことから明らかである。 董卓の乱以前は曹操はその言葉の通り漢の復興に全力を注いでいたと言って良いだろう。
しかし董卓の乱がおきる。董卓が権力をとった以上、 内部から漢を復興するのが不可能なのは誰にでもわかる。 曹操はそれ以前から故郷に引っ込んだりして漢の復興を目指すべきか迷いが生じていた時期もあったようだが、 董卓の乱で完全に決意したようでついに挙兵する。
董卓以後の曹操の理念は漢に代わって新しい秩序をつくることである。 挙兵した時、曹操が袁紹とその抱負を語りあう記述が武帝紀にある。
袁紹が公とともに兵をあげたとき、袁紹は公に訊ねた。 「もし事が成就しなければ、拠るべきところはどの方面でしょうか。」 曹操「足下の意中はどうですかな。」 袁紹「わたしは南方は黄河に頼り、北方は燕代をたのみとし、戎狄の軍勢を合わせ、 南に向かって天下を争う。だいたい成功できると思いますが。」 曹操「私は天下の智者勇者にまかせ道義をもって彼らを制御する。うまくいかないことはないでしょう。」
袁紹は地形の有利さや異民族の強力な軍隊という実利を重視しているのに対し、 曹操は人材や道義を重視している。 本末という概念で言うと袁紹は末端的なものを重視し曹操は根本的なものを重視している。 もちろん実際には曹操も実利を重視していたし、袁紹も表面的には徳を備えていた。 曹操はやはり単なる現実主義者ではなく道義を重視する理想家としての側面もあわせもっていた。
それでは曹操はその言葉通り漢に代わる正しい秩序をつくれたか。 重要なのは民の生活の安定である。それに関し『魏書』に次の記載がある。
荒廃と動乱に遭遇してから、食料は不足がちであった。 諸軍はいっせいに蜂起したが、一年間の食糧計画さえもたなかった。 飢えれば略奪をはたらき、腹がいっぱいになれば余り物を捨てる。 瓦がくだけるようにもろく崩れ、流浪し、敵もないのに自ら敗れる者が数えきれぬほどあった。 袁紹が河北にいたとき、軍人は桑の実を食物として頼り、袁術が江淮の地域にいたときは、 蒲とはまぐりを取って補給した。人々は互いに食い合い、郷村は荒れてひっそりとしていた。 曹公は言った。「そもそも国を安定させる方策は、強力な軍隊と十分な食料にかかっている。 秦の人は農業重視によって天下を併合し、孝武帝は屯田によって西域を平定した。 これが前の時代のすぐれた手本である。」 この年、かくて民を募集して許の近辺で屯田させ、百万石の穀物を収穫した。 その結果、州郡に田官を設置することをさだめとし、それぞれの場所で穀物を蓄積した。 四方を征伐するのに食料を輸送する苦労がなくなり、ついに群賊を併呑滅亡し天下を平定できた。
この記述からわかるのは黄巾の乱以後、深刻な食糧不足が続いていた点である。 民は「流浪し」とあるように定住せず堅実な農業を行っていなかった。 「飢えれば略奪をはたらき、腹がいっぱいになれば余り物を捨てる。」というのは最悪の状況である。 全く無計画でその場しのぎの生活をしている。 「敵もないのに自ら敗れる者が数えきれぬほどあった。」というのもひどい。 敵がいてそれに敗れて崩壊するならまだわかるが、敵もいないのに集団が崩壊するというのは、 集団を支える秩序自体が存在しないからである。いかに悲惨な状況だったかがわかる。 漢は霊帝以後、民の生活を安定させることに失敗している。
曹操はまず許の近くで屯田を行い流浪する民を定住させ、堅実な農業を行わせた。 そしてそれが成功すると今度は支配地域全域で屯田を行い民の生活を安定させた。 曹操は漢に代わって正しい秩序をつくったと言っていいだろう。
曹操は献帝を迎えるが当然漢を復興するつもりはない。 漢に忠義を尽くすように進言した荀彧を遠ざけている点からもわかる。 何よりその後曹丕が漢を滅ぼす準備を曹操自身が行っているのがその証拠だ。
曹操に天命が下ったと考えてよいかは分からない。 漢に代わって秩序を打ち立てたのは事実だが、天下は三分し中華を統一できなかった。 さらに曹操のもたらした平和は短かった。劉邦、李世民、朱元璋とは同列ではないかもしれない。
『魏氏春秋』に曹操の「若天命在吾、吾爲周文王矣」という言葉がある。 「私に天命があろうとも私は周の文王となろう」という意味である。 曹操自身自分に天命があるとは言わなかった。 しかしこの言葉からも漢を滅ぼす意思はあったのであり、 中原に平和をもたらした曹操には許される言葉かもしれない。
まとめると董卓の乱までは漢に忠義を尽くし、 董卓以後は漢にとって代わるという理念を実現した。 後日の曹操の言葉と曹操の行動は一致し、 これが曹操の理念であり本心であったと結論してよいだろう。
続きは劉備の理念をご覧ください。
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■上部の画像は熊谷守一「ノリウツギ」
■作成日:2020/10/30