以下に紹介する読書方法は私の読書方法であるが、私はひそかに孔明も同じ読書法を行っていたのではないかと推測している。 孔明と私では才能に天地の差があるため、もとより同じ読書体験では当然ないが、以下解説する。
読書は我々の世界観、価値観を創る方法のひとつである。人は自分の世界観、価値観を人生を通して形成していくが、その価値観、世界観は「自己流」の価値観である必要がある。
しかしそれは「我流」であってはいけない。最初は多くの人や書物、自然や文化、旅、経験などから多様な内容を学ぶ必要がある。
『荀子』勧学篇に次の言葉がある。
かつて自分は終日思索したがその結果はほんのしばらくの勉学にも及ばなかった。かつて自分は爪先立って遠くを見ようとしたが高いところからの広く見えるのには及ばなかった。
高いところに登って招けば手が長くなるわけではないのに遠くの人にも見える。風上から呼べば声が強くなるわけではないのにはっきり聞こえる。車と馬を利用するものは自分で足を強くしたわけではないのに、
千里の道を行きつくす。船と舵を利用するものは自分でよく泳げるわけではないのに、江海をも渡りきる。君子とても生まれつきすぐれているわけではなくても他の物を借りて利用するのである。
<中略> 西方に射干という木がある。茎の長さはただの四寸であるが高山の上に生えているので、百靱もの深い淵を見下ろしている。これは木の茎がそれだけ長いのではなくて、
立っている高山がそうさせたのである。
『荀子』勧学篇
高山に立つ木が深い淵を見下ろせるように、多くの人や書物から学ぶ人間は、他人の力を借りて、多くの内容を見通せると荀子は述べる。
『論語』衛霊公篇に次の言葉がある。
書下し文
子曰く、吾かつて終日食らわず、終夜寝ず以って思う。益なし。学ぶにしかざるなり。
現代語訳
孔子が仰った。「私は以前、一日食事もせず、一晩中寝もしないで考えたが、無駄であった。学ぶのに及ばなかった。」
孔子も考えるより学んだ方がはやいと述べている。
孔子や荀子の上記の言に私は賛成する。しかし、注意しなくてはならない点があると思う。
人や書物から学ぶ場合、その師となる人やその書物の著者は自分と同じ人間ではない。別の個性を持った人間である。 であるから、我々はその師の考えやその書物に書いてある考えを決して鵜呑みにしてはならない。 師や著者に当てはまった内容が自分にも当てはまるとは限らないからである。
できるだけ多くの人や本から学び、自分が納得し自分に合う考えを選んで受け入れる作業が必要である。そうやって自分に合った良い考えをたくさん蓄積する。 そして時がたつとそれらの考えは自分の個性や問題意識を核として、自然に総合され合成される。 そうすると「自己流」の価値観が形成される。
その内容は多くの先人や書物、自然や文化などから学んだ内容を土台としているから、それは決して「我流」の価値観ではない。
しかし他人の考えを鵜呑みにせず、自分に合うもの、納得したものを選んでいるのだから「他人」の価値観でもない。
「自己流」なのである。
自分の個性、問題意識という観点から先人たちの思想を捉えなおし再構成する。 これが読書による「自己流」の価値観の形成であると思う。
学んでその内容を合成するだけでよく、思索は不要かというとそれも当たらない。 ショーペンハウエルの『読書について』に次の言葉がある。
読書は他人に考えてもらうのと同じである。 一日を多読に費やす人間は次第に自分で考える力を失っていく。
『読書について』
読書をして自分で考えない人は先人の考えを吸収するだけで自分の思想は紡げないであろう。 思想家にとっては思索と読書は車の両輪である。思想家ではなく行動家であれば行動と読書が両輪となるはずである。
『論語』為政篇に有名な次の言葉がある。
書下し文
学んで思わざればすなわち暗し。思いて学ばざればすなわち危うし。
現代語訳
書物や師から学んでも、自分で思索をしなければ考えははっきりしない。思索をしても、書物や師から学ばなければ独断に陥って危険だ。
上記の孔子の言は中庸を捉えていて、的確である。
続きは孔明の読書方法4をご覧ください。
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■作成日:2016/01/28