孔明は27才で劉備に仕えた。当時としては遅い出仕である。それまでは長い読書生活である。
人は若いころの読書をもとに自分の思想や価値観を形成して、それに基づいて行動を起こす。 逆に言えばその人物のその後の仕事を見れば、若いころの読書生活をある程度推測できる。
本論では孔明の事績から彼の若いころの読書生活を合理的な範囲で推測しようと試みる。 確かな証拠はないため、あくまで推測に過ぎないのを前提で読んでいただければ幸いである。
孔明は法を厳格に運用した。彼は法家思想を受け継いだと考えられる。
陳寿の諸葛亮の評を引用する。
諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代に合った政策に従い、まごころを開いて、公正な政治を行った。 忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し、職務怠慢な者は、身内であっても、必ず罰した。 罪に服して反省の情をみせたものは、重罪人でも必ずゆるしてやり、いいぬけをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。 善行は小さくとも必ず賞し、悪行は些細でも必ず罰した。あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、 うそいつわりは、歯牙にもかけなかった。かくて、領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。刑罰・政治は厳格であったのに怨む者がいなかったのは、彼の心くばりが公平で、 賞罰が明確であったからである。
以上から孔明がいかに法を重んじたかがうかがえる。しかし上記の引用から、孔明が法家思想のみを受け継いだとは考えづらいであろう。
法家思想のみによって国を運営した、秦とはかなり趣が違うのである。 秦の寒々とした冷たい法による統治ではなく、孔明の治世は血の通った人間的な法による統治である。
孔明が儒教を受け継いでいたのは明白である。孔明の人間的な治世は、儒教の雰囲気が濃厚にある。
『荀子』より引用する。
元来、刑罰は犯罪にかなっていれば威厳が立つが、犯罪にかなっていなければあなどられる。
また爵位は優秀者にふさわしく与えられれば尊重されるが、優秀者にふさわしくなければ賎しめられる。<中略>
(むかしは)刑罰は犯罪よりも重くはならず、爵位褒賞は本人の徳より以上にはならず、確固としてそれぞれにその誠心を通じあえた。
そこで善事を行う者は奨励され、悪事を働く者は阻止され、刑罰は殆ど執行されないでいて威令が水の流れるようにゆきわたり、
政令も非常に明白で不思議なほどにうまく民衆の風俗を変化させる。
『荀子』君子篇第二十四
古代の聖王の喜怒の感情はすべて正当であったから、従って喜ぶ場合には世界中の人々もそれに応じ、怒る場合には乱暴者もそれを恐れた。
『荀子』楽論篇第二十
君主の感情や賞罰が道理にかなっていれば統治者に正しい威厳が生まれ、親しまれ、民は彼に共感し、感化され、国に正しい道がもたらされると荀子は言う。 以上の荀子の言葉は若干大げさである点を除くと、あたかも孔明の統治を描写しているかのようである。
『近思録』に次の言葉がある。
書下し文 諸葛武侯は儒者の気象あり
現代語訳 諸葛孔明は儒者の風格がある
『近思録』総論聖賢
書下し文 孔明は礼楽に近し
現代語訳 孔明は新しい道徳を興す人物に近い
『近思録』総論聖賢
上記は程伊川の言葉である。「礼楽に近し」というのは若干大げさな印象があるが、孔明の人間的治世、劉備、劉禅への忠誠、それらを鑑みると、大儒程伊川からみても、 孔明は儒教の要素を十分に持っていたと評価されている。
続きは孔明の読書方法2をご覧ください。
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