『思考の整理学』から引用する。
それでは、アイディアと素材さえあれば、すぐ発酵するか、ビールができるのか、というと、そうではない。
これをしばらくそっとしておく必要がある。次の章でのべることになるが、”寝させる”のである。ここで素材と酵素の化学反応が進行する。どんなにいい素材といかにすぐれた酵素とが揃っていても、いっしょにしたらすぐアルコールになるということはあり得ない。
頭の中の醸造所で、時間をかける。あまり騒ぎ立ててはいけない。しばらく忘れるのである。”見つめるナベは煮えない”。
「素材」と「酵素」がないと「ビール」はできない。しかし「素材」と「酵素」があっても、発酵させる時間がないと「ビール」にならない。「寝させる」必要がある。
「ビジネスリーダーの哲学」を書いた時も同じである。最初、関連書を何十冊も読む。そして付箋を貼ったところをくりかえし読む。「素材」が手に入る。そして中国思想という「酵素」は自分の中にある。しかしすぐには発想は生まれない。「寝させる」必要がある。しばらくすると「発酵」が進み、何かの拍子に少しづつ発想が生まれる。
強引に発酵させてはいけない。素材と酵素という異質なものを強引に結びつけてもいけない。寝かせておく。すると素材同士が酵素によって「自然に」結びつく。「自然に」結びついた時に、その発想は「自然な」発想になる。正しい発想になる。
『思考の整理学』から引用する。俳句を創る正しい方法について次の記載がある。
真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供するときである。
「ビジネスリーダーの哲学」もそのようになっている。さまざまなビジネスリーダーたちの言葉の意味を理解し、その真意を捉える。そしてそれらの言葉が「自然に結び合う」ようにできている。自然に結び合う「場を提供」しているのである。ビジネスリーダーたちの言葉という「素材」を何度も読む。そしてその素材が自分の中にある中国思想という「酵素」により「発酵」するのを待つのである。すると「素材」が「自然に結び合う」ようになる。私の中国思想が「いわば、受動的に働いて」いるのである。
現代日本を良くするための発想では、まず現代日本のいろいろな問題や現象を知る。そしてそれらの意味を理解する。それらが「素材」である。そして中国思想という「酵素」が自然に働いて「素材」同士が自然に結び合うまで寝かせておく。やはり「酵素」である中国思想が「受動的に働く」のである。
日本料理も同じである。日本料理に関して言われるのが「素材の味が生きている」という言葉である。料理人は素材の味を理解し、それらが生きるようにする。素材の良さを引き出す。複数の食材の個性を理解し、それらが自然に結び合うようにする。料理人の腕がいわば「受動的に働いて」素材の味が生きた料理ができるのだ。
さらに『思考の整理学』から引用する。
一見して、没個性的に見えるであろうこういう作品においてこそ、大きな個性が生かされる、と考える。
素材に対して著者の個性が受動的に働くのは一見没個性的であるかのように見える。しかしそういう作品においてこそ、本当の意味で個性が生かされるのだという。本当に個性的なものは一見没個性的に見える。個性が積極的になり過ぎず、消極的になり過ぎず、能動的でありながら受動的である。個性的と没個性的のハーモニー型中庸が実現したときにすぐれた作品が生まれる。
受動的に過ぎる場合を例を挙げて説明する。『論語』に関して、例えば次のような感想を書いた人がいるとする。「温故知新というのは、新しいものと古いものを両方を知ることですぐれた思想が生まれるという意味だ。私もそれは正しいと思う。」これはただ古典の言葉をなぞっただけである。
もちろんそれが悪いわけではない。古典の言葉を正しく理解したのであれば、それは素晴らしいことである。しかしこれだけでは論文にならない。『論語』という「素材」に対して受動的に過ぎる。「酵素」が働いていない。なんの個性もない。単なる没個性である。
日本料理で言えば、これは畑のトマトやキュウリをちぎって食べているようなものである。確かにおいしいし、素材に感動できるのは素晴らしい。しかしそれは「料理」ではない。「素材」だけである。
逆に能動的に過ぎる場合を挙げる。よくあるのが自分自身の持論や説があり、それを強引に素材に当てはめる場合である。素材を理解しようとしないで、自説の観点から素材をねじ曲げて理解する。「酵素」や「個性」が強すぎて素材をゆがめてしまう。
料理で言えば、得意な味付けや調理法が先にあって、それをどの食材にも強引に当てはめてしまうようなものである。食材の個性をよく理解しそれを生かす味付けや調理をしないといけないのに、強引に料理をするので、食材の個性が消えてしまう。
素材を正しく理解しようと努めて、発酵するまで寝かせること、このふたつを忘れなければ防げる間違いだが、素材の理解を努めない場合や、強引に発酵させようとする人はこの間違いに陥る。
当サイトではおなじみになる図で説明する。
右下が受動的な場合。畑のトマトをちぎって食べると素材の味は間違いなく生きている。しかし料理人としては没個性的である。料理の腕を振るう余地はない。『論語』の「温故知新」を単純に引用するのは、素材は生きる。その反面、論文としては個性がない。
左下が能動的な場合。自分の得意な料理法を強引にどの食材にも当てはめる場合。確かに個性的かもしれない。しかし素材は生きない。論文でも自説をどの具体例にも単純に当てはめるのは、素材が生きない。
それに対して、素材を正しく理解し、自分の個性となる酵素をもち、それを寝かせることで正しく発酵させるというただしい過程を経た発想は図の上の「ハーモニー型中庸」なり、個性的でありながら素材が生きる。個性的でありながら良い意味で没個性的であるすぐれた作品になる。
そのような論文をつくるにはどうしたらいいか。既に述べたことをまとめると「素材」と「酵素」を混ぜ合わせ、寝かせることで「発酵」を促し、ふとした時に良い発想が「自己組織化」する。
『思考の整理学』から引用する。
寝させておく、忘れる時間をつくる、というのも、主観や個性を抑えて、頭の中で自由な化合が起こる状態を準備することに他ならない。ものを考えるに当たって、無心の境がもっともすぐれているのは偶然ではない。ひと晩寝て考えるのも、決して、ただ時間のばしをしているのでないことがわかる。
主観・酵素・個性と客観・素材・没個性がほど良く調和し、発酵し、「頭の中で自由な化合が起こる」という良い発想が自己組織化する過程を述べている。さらに引用する。
ものを考えるに当たって、あまり、緊張しすぎてはますい。何が何でもとあせるのも賢明ではない。むしろ、心をゆったり、自由にさせる。その方がおもしろい考えが生まれやすい。さきのような意味で没個性的なのがよいのである。
自然な発酵と自己組織化を待つ、というのが重要である。中国思想では、「いくら畑を耕しても、いくら種を植えても、春にならなければ芽は出ない。いくら水をやってもいくら肥料をやっても、秋にならなければ稲は実らない。」と言う。何が何でもとあせるのは良い効果を生まないことが多い。
Π字型人間はその点有利である。2つの分野を修めているため、「素材」と「酵素」は常に自分の内にある。だからあまり意識しなくても、ほとんど自動的に「発酵」が生じる。だから「素材」「酵素」「発酵」「待つ」ということを意識しなくても自然に日々、「発酵」が生じ、発想の「自己組織化」が生じるのである。
■作成日:2026年3月6日
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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。