外山滋比古という英文学者に『思考の整理学』という本がある。大学生が卒論を書くに当たり、テーマの見つけ方、発想の仕方のバイブルとして売れている本らしい。「東大・京大で一番読まれた本」というキャッチコピーで売られている。何となく買う気をそがれるキャッチコピーだが、出版社側が勝手につけたキャッチコピーであって、著者が悪いのではない。読んでみると内容は良い。
私自身、発想の仕方、論文の書き方についていつか書いておきたいと常々思っていたが、うまく書けずに後回しにしていた。この本を読むと、私の発想の仕方とほぼ同じ内容が非常に的確に表現されている。この本を引用しながら、発想の仕方について書いてみたい。
論文を書く際のテーマの見つけ方について次の記載がある。著者は英文学者なので、文学研究の卒論の書き方を書いてある。
文学研究ならば、まず、作品を読む。評論や批評から入って行くと、他人の先入主にとらわれてものを見るようになる。
読んでいくと、感心するところ、違和感をいだくところ、わからない部分などが出てくる。これを書き抜く。くりかえし心打たれるところがあれば、それは重要である。わからない謎のような箇所が再三あらわれれば、それも注意を要する。
こういう部分が、素材である。ただ、これだけではどうにもならない。ビールをつくるのに、麦がいくらたくさんあっても、それだけではビールはできないと同じことである。
まずは作品を読む。例えば『二都物語』であれば、『二都物語』を読んでいく。「感心するところ、違和感をいだくところ、わからない部分など」をマークする。外山氏は書き抜くが、私の場合は付箋を大量に貼っていく。そしてそれらが自分が作品から印象を得た箇所である。私の場合それらの個所を何度も読んで、理解を深めていく。『二都物語』についての論文を書くのであれば、作品全体が「素材」になるが、付箋を貼ったところは、とくに自分自身が気になったところであるから、「素材」のなかでも中心的な部分になる。
しかし素材だけでは論文にはならない。麦だけではビールにならないのと同じである。要は『二都物語』を読むだけでは、『二都物語』の論文は書けないというわけである。イアン・カーショーというヒトラー研究者が、「ヒトラーはヒトラーによって説明できない」と言っている。いくらヒトラーの人生を研究しても、ヒトラーを理解することはできない、というのである。それと同じでいくら『二都物語』を読んでも、それだけでは論文を書けない。
続けて引用する。麦という「素材」にたいして、「酵素」を足すことでビールができるように、「素材」にたいして「アイデア」を加えることで論文になるという。
これに、ちょっとしたアイデア、ヒントがほしい。それは作品の中に求めるわけには行かないが、どこときまっているわけでもない。ときには週刊誌を読んでいても、参考になることにぶつかることがある。他人と雑談していて、思いもかけないヒントが浮かんでくることもある。読書、テレビ、新聞など、どこにどういうおもしろいアイデアがひそんでいるか知れない。
このヒント、アイデアがビール作りなら発酵素に当る。学生で、ただ作品をこつこつ読んでいるだけという勉強家がいるが、これではいつまでたっても、テーマはできない。論文も生れない。
アルコールに変化させるきっかけになるものを加えてやる必要がある。これは素材の麦と同類のものではいけない。異質なところからもってくるのである。
大きな発見が、ときに、霊感によってなしとげられるように伝えられるのも、この酵素が思いもかけないところから得られたのを第三者が驚異をもってながめるときの印象であろう。テーマ、おもしろいテーマを得るには、このヒントが秀抜でないといけないが、それが、なかなか思ったところにことがっていないから苦労する。
しかし、いくら苦労でも、酵素を加えなくては麦はアルコールになってくれない。
これは私が論文を書く際に、知らず知らずのうちに実践していることである。私は中国思想を修めた。必ずしも詳しいわけではないが、中国思想のその本質に関しては、恐らく現代日本人のなかでもかなり上位であると思う。常に私のなかには中国思想が、その本質が生きている。その状態でいろんな分野について学ぶ。
たとえばAという分野について学ぶとすると、その分野に関する本を何十冊と読む。そして感銘を受けたところに大量に附箋を貼っていく。それが「素材」になる。麦である。そして時間が経つと私の中に生きている中国思想が「酵素」となって発想が湧いてくる。発想が出てくるたびに、メモしておく。そのメモが何十もたまってくると、それらを整理し、分類し、どの順番で論述したらいいかを考えて、実際に書いていく。これで論文ができる。ビールができる。
外山氏は「酵素」であるアイデアは外からもってくると述べているが、私は「酵素」は自分の中にある。中国思想である。これが私の中で生きているため「酵素」を外に探す必要がない。常に「酵素」を内に持った状態で、「素材」と向き合うことになる。
例えば『ビジネスリーダーの哲学』を書いたときは、スティーブ・ジョブズ、イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、『ビジョナリーカンパニー』などの本を何十冊か読み、おもしろいところに付箋を貼っていく。そして付箋を貼ったところを何度も何度も読み返す。この付箋を貼ったところが「素材」である。そしてそれらをしばらく寝かせておくと、私の中にある中国思想が「酵素」として働き、発想が湧いてくる。そのたびにメモをする。そのメモが何十もたまってきたら、それらを整理し、分類し、どの順番で論述したらいいかを考えて、実際に論文を書いていく。
現代日本をどうやって良くするかも同じである。まず現代日本の状況を調べる。知識を得る。歴史も関係している。なぜ現代日本がこのような状況であるかは歴史を遡ればある程度分かる。日本の歴史の大きな流れをつかみ、現代日本に関する本を何十冊も読む。ニュース、SNS、ネット、youtubeなどで識者の意見を集める。それが「素材」である。
しかしいくら素材があってもそれだけでは日本を良くする方法は見つからない。いくら現代日本の状況を調べてもそれだけでは、日本を良くする方法は思いつかない。もちろん現代日本の状況を知ることが必要である。それがないと解決には至らない。しかしそれ「だけ」では十分ではないのである。
私の場合は私の中に中国思想の本質がある。それが「酵素」として働き、ビールができる。どうやったら日本が良くなるかの道筋が見えてくる可能性はある。
「アルコールに変化させるきっかけになるものを加えてやる必要がある。これは素材の麦と同類のものではいけない。異質なところからもってくるのである。」とある通り、現代日本の状況という「素材」とは異質な中国思想が「酵素」として働くのである。
私が提示する解決方法は私の解決方法であり、それも一理あるとは思うが、もちろんそれだけが正しい方法ではない。人によってその人の角度から別の解決方法が提示されると、日本はもっと良い国になる。
■作成日:2026年3月6日
続きはΠ字型人間 2.0をご覧ください。
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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。