表現の変容

 恐らく孔子の遺書は曾子、子思学派において最初は正式な書物ではなく、文書で伝えられたり口頭で講義されたりしていたであろう。 そして曾子や子思の注釈とともに代々その学派において伝承された。

 一定の時期を経ると、その学派内で雑説なども生じてくるため、どれがその学派の正統思想かをはっきりさせる必要が生じる。 そして『大学』『中庸』として正式な書物に編纂されたのではないかと思う。

 その際注意すべきは、その学派内部において文字上の表現などは、もともとの内容から変容を受ける可能性があるという点である。

 例えば私が孟子の「偕に楽しむ」という思想をブログで紹介したとする。その際「偕に」という文字は最近使われないので「共に」と書き換えたとする。 「偕に」を現代日本的な「共に」に書き換えるのである。

 しかし私が表現を書き換えたところで「共に楽しむ」という思想は私の思想になるのではなく、孟子の思想である。

 同じように曾子、子思学派の後継者たちは、孔子の遺書や曾子、子思の注釈を日常的に議論するにおいて、自分たちの時代の表現に言い換えたりして議論をしていた可能性がある。 表現を書き換えたからと言って、その思想は後継者たちの思想となるのではない。あくまで孔子、曾子、子思の思想である。

 『大学』『中庸』という正式な書物になってからは、それが世の中に広まり、さらに表現を書き換えてはいけないという規範が成立したりして、本来の表現を残すようになったであろうが、 それまでは表現の書き換えはそれなりにあった可能性がある。

 『大学』『中庸』の表現に後世の表現があるから、後世の著作だという見解は、必ずしも確実とは言えない可能性がある。

『論語』は孔子の言葉は「子曰く」ではじまり明記してある。しかし『大学』『中庸』は「子曰く」ではじまらない箇所が多い。だから孔子の言葉ではないと結論する論者もいる。

『大学』『中庸』は「子曰く」で始まる箇所もあるが「曾子曰く」で始まる箇所もあり、「○○曰く」がつかないで始まる箇所もある。重要な所ほど「○○曰く」がついていない。

私の仮説では孔子は『大学』『中庸』の一部を匿名の言葉として遺書で残した。それを発見した曾子はまさかその遺書に「子曰く」をつけるわけにはいかない。それは孔子の意思に反する。しかし「曾子曰く」をつけるわけにもいかない。それは剽窃になる。だから「○○曰く」がついていないのである。しかも重要な所ほど何もついていない。

『大学』『中庸』に「子曰く」がついていないのは孔子の言葉ではない証拠だという論者がいるが、私は逆にそれは孔子が匿名で遺書を残した証拠になるとすら思う。重要な所ほどついていないのが証明になるだろう。


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