孔子の遺書

 晩年の孔子の立場に立って考える。孔子には恐らく自分自身の理論があった。しかしそれを語らなかった。 その理由はひとつは弟子たちがそれを理解しないからであり、さらに言うと道を理解しないのに高遠な理論を述べ立てる弟子が現れるのを恐れたためである。 もうひとつの理由は、「古者言の出ださざるは、身の及ばざるを恥じるなり。」というように、現実での失敗者であった孔子が高遠な理論を述べるのは良くないと、孔子自身が判断したためではないかと思う。

 しかし孔子はそれらの理論を本当に語らなくてよいのだろうか。もし最後までその思想を語らなかったら世界から孔子の思想は永遠に消えてしまう。

 『近思録』論学に程伊川の次の言葉がある。

書下し文 
聖賢の言は已むを得ざるなり。蓋しこの言あれば、則ち是の理明らかに、是の言なければ、則ち天下の理に欠ける有り。

現代語訳 
聖賢の言葉はやむをえす発せられる。その言葉があれば道理が明らかになるし、その言葉がなければ、天下の道理に欠けた点ができる。

 孔子がその理論を残さなければ、その偉大な思想はこの世の中から消えてしまう、その理論を書き残せば世の中にその思想は残る。  恐らく孔子は自分の理論を遺書という形でしかも匿名で残したのではないかと推測する。私の勝手な推測では『大学』『中庸』の少なくとも冒頭部分がそれに当たるのではないかと思う。

 『大学章句』に次の言葉がある。

書下し文 
子程子いわく、大学は孔子の遺書にして初学の徳に入るの門なり。

現代語訳 
程子が仰った。大学は孔子の遺書であり初学者が徳を学ぶ入門である。

 程子だけではなく、朱子も『大学』の冒頭を孔子の言と述べている。

 朱子が『大学』『中庸』を称揚したのは、『大学』『中庸』が重要だからである。そして『大学』の冒頭を孔子の言と述べたのは、それが聖人の言葉にふさわしいと朱子が考えたからである。

 朱子や程子のような道を知る人間が、『大学』の冒頭を聖人の言と直感したのである。

 私の勝手な推測では恐らく孔子は遺書として『大学』『中庸』の一部分に当たる章を残したと考える。

 『大学』と『中庸』はその内容においても表現においても非常に似ている。その点からも同一人物の理論、孔子の理論がもとになっているのではないかと考える。

 曾参は孔子の死後、孔子の孫の子思を教育しつつ孔子の旧宅の管理を行ったと言われている。恐らく曾子は旧宅を管理する際に孔子の遺書を手にしたのではないかと思う。 それを読むと簡潔に短くではあるが孔子の理論が書いてある。後世において『大学』は曾子の作、『中庸』は子思の作と伝わっているのは旧宅に残ったのがこの二人だったからではないかと思う。

 しかし、当然曾子も子思も孔子の言葉を自分の言葉として剽窃するような人物では決してない。

 恐らく孔子は匿名でその理論を後世に残すよう遺言をしたはずである。『大学』において格物致知から平天下までに至る自然で合理的で壮大な理論が述べられているが、孔子は現実においては成功者ではなかった。 「古者言の出ださざるは、身の及ばざるを恥じるなり。」と言うように、本来そのような壮大な理論を孔子は残すべきではないと孔子自身は考えていたのではないかと思う。 しかし残さなくてはその思想は失われてしまう。そこで致し方なく匿名で残したのではないかと考える。

 孔子がその理論を遺書として匿名で書き残したのは、自己の思想を語るべきか、語らざるべきか深く悩んだ末の決断だったと言えると思う。

 その遺書を手にした曾子、子思は困ったはずである。曾子、子思自身の言葉として門人たちに教えれば剽窃になる。しかし孔子の貴重な言葉である以上広めないわけにはいかない。 それどころか孔子の貴重な理論を世の中に広める使命があると言うべきである。

 曾子、子思の学派に儒教の正統な思想が伝えられたのはそのような事情があったのではないかと考える。

 曾子や子思は孔子の言葉をもとにして優れた注釈を残し、正統な思想の後継者となり偉大な人物になった。曾子や子思ほどの人物でなければ孔子の理論に対する優れた注釈は残せなかったはずである。 そして曾子と子思が門人たちにその内容を教えているうちに、いつしか『大学』は曾子の著作、『中庸』は子思の著作と言われるようになった。

さらに後世の人の加筆などが行われ徐々に現在の『大学』『中庸』になったのではないかと思う。

そしてさらに朱子が千数百年後に、その孔子の遺書が『礼記』のなかに埋もれていたのを、論孟と並ぶ四書として称揚したのは非常に偉大な歴史的功績であると私は思う。道を真に知る朱子だからこそできた大業だと考える。

続きは表現の変容をご覧ください。


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