悪の構造4

偉大さの影

オウム真理教のサリン事件も同じかもしれない。 仏教を間違えた仕方で継承したと言えるからである。 サリン事件を何故起こしたかについては明らかにならなかったため 分析は困難かもしれない。

「悪」の構造について述べた。 信念を持たない悪人もいるが、それは本当の「悪」ではない。

街中にいるチンピラは悪い行いをするし、 一見威勢が良いようだが、信念はないはずである。 困難にぶち当たれば自分の計画を捨ててしまうだろう。 彼らは「悪」というより「野蛮」というべきだと考える。

ヒトラーやイスラム自爆テロを何か狂気ととらえ、 訳が分からないと考える人々は、 何故ヒトラーや自爆テロが存在するかを理解していない人である。

本当に正しく「悪」の問題に向き合うには、 「悪」と戦うだけではなく、なぜ「悪」が生まれるかも 知っておく必要がある。

「悪」は偉大さの「影」である。 人が太陽のもとに立つとそばに影ができる。 同様に偉大な思想や文化が歴史上に立っていると、 そのそばに「影」ができる。その「影」が「悪」の正体である。 「悪」は偉大さの「影」なのである。

■2024年4月28日追記。

ガンディー『真の独立への道』に次の言葉がある。

太陽があるところに闇があるものです。影はすべてのものにあります。

すべてのものに影はある。偉大なドイツ文化にも、イスラームにも、仏教にも影はあるのである。

■追記終り。

手足のしびれと不仁

『近思録』道体篇に次の記載がある。

書下し文
医書に手足の痿痺せるを不仁と為すと言う。この言最も善く名状す。仁者は天地万物を以て一体と為し、己に非ざる無し。己たるを認得すれば何の至らざる所か有らん。もし之を己に有せずんば、自ずから己と相関せざること手足の不仁なるが如くならん。気すでに貫かざれば、皆己に属せず。

現代語訳
医学書に「手足がしびれたのは不仁である」と書いてある。この説明は形容上手だ。仁者は天地万物を一体と考え、万物は全て自分自身と考える。全てが自分自身だと認識すれば全て問題を解決できる。もしある物が自分自身でないなら、その物は自分とは関係のない物であって手足がしびれたのと同じようなことになる。気が一貫しないと、全てが自分に属するとは言えなくなる。

我々は手足がしびれていないときは手に傷を負えば手が痛いと思う。冬にはだしでいると足が冷たいと思う。しかし手足がしびれてしまえば手足の痛みや冷たさなど手足がどう感じているかが分からなくなる。

仁者は手足がしびれていない人である。仁者は他人の痛みも理解し他人がなぜそのような行動をとったかも共感しながら理解する。だから仁者は多くの問題を本当の意味で正しく解決できる。天地万物を一体と考えそれに共感しながら理解する。「仁者は天地万物を以て一体と為し、己に非ざる無し。」とはこのことを言う。

しかし不仁者はそれと反対である。手足がしびれた人である。しびれた人が手足の痛みや感覚を理解しないように、他人の痛みや考えを理解しない。他人を自分とは関係のない者として扱う。「己と相関せざること手足の不仁なるが如し」となる。だから正しく問題を解決できない。

「気すでに貫かざれば、皆己に属せず。」は手足がしびれると「気が貫かざる」状況となり、手足が自分に属しなくなる。不仁者は他人の考えを理解しないで対処する。それに対し仁者は他人の考えを共感しながら理解する。

それと同じようにヒトラーやイスラムテロが起きないようにするには本当は彼らの気持ちが理解できる必要がある。そこを理解せずに解決すると、とりあえずの解決はできるしそれは緊急の場合どうしても必要だ。悪を封じ込めるための軍事力も必要だ。しかし根本的解決にはならない。

ヒトラーやイスラムテロを理解する必要があるが、もちろんだからと言ってヒトラーやイスラムテロが正しいというわけでは決してない。明らかに間違えている。しかし根本的解決のためには彼らの思想を理解する必要はある。

彼らの思想を理解すればただちに問題が解決するわけでもない。しかしそれでも理解する必要はあると思う。


■上部の画像はルオー

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■作成日:2016/3/18


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