劉備の遺言~天下三分の計3

7.孔明その後

孔明はその後、南蛮を平定し、蜀の国力に見合わない無謀ともいえる北伐を繰り返す。そもそも魏の国力は蜀の7倍近くあり、しかも対する将軍は司馬懿であり堅く守って出撃してこない。孔明はいたずらに蜀の国力を疲弊させてしまう。

さらに『魏志春秋』という書物が、ちくま学芸文庫『三国志5』蜀書139ページに次のように引用されている。

「諸葛亮の使者が司馬宣王(司馬懿)のもとにやってきた。司馬宣王はその睡眠時間や食事の量、および仕事の忙しさについてたずねて、軍事のことはたずねなかった。使者が、「諸葛公は朝まだきに起き夜遅くなってから横になられます。鞭打ち二十以上の罰は、すべて自分で執り扱われます。おとりになる食事は数升(二、三合)にもなりません。」と答えると、司馬宣王は、「諸葛亮は間もなく死ぬだろう。」といった。」

なぜ孔明は自分を追いつめるように働き続け、そしてこのような無謀な戦いを続けたのだろうか。
 孔明の行動は不自然であり、不可解だと考える。

劉備の臨終の際の孔明への言葉を引用する。

「「もしも跡継ぎが補佐するに足る人物ならば、これを補佐してやって欲しい。もしも、才能がないのならば、君は国を奪うがよい。」諸葛亮は涙を流して、「臣は心から股肱としての力を尽くし、忠誠の操をささげましょう。最後には命を捨てる所存です。」と言った」(「蜀書」諸葛亮伝)

劉備が本心で「君は国を奪うがよい」と言ったかどうかは定かではないが、 少なくとも孔明がその言葉を劉備の本心と受け取った、ということはその後の孔明の生涯が、 無謀とも言える数度にわたる北伐が、立証している。 もし劉備が本心でなくそう言ったと孔明が考えたならば、孔明はそのような不自然な北伐と言う行動に出なかっただろう。 孔明の不可解な後半生は他の理由では説明がつかないのである。

「出師の表」の末尾を引用する。

「深く先帝のご遺言を思い起こしまして、臣は大恩を受け、感激にたえません。今、遠く去らんとするにあたり、この表を前にして涙が流れ、申し上げる言葉を知りません。」(「蜀書」諸葛亮伝)

 孔明の以上の言葉は私は本心だと思う。孔明は北伐が不可能であることを自身でも恐らく認識していたにもかかわらず、劉備に報いるため戦いを続けなければならなかった。孔明の悲劇は、劉備という中国史上稀にみる巨大な魅力を持った人格が生み出した悲劇と言えよう。

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