孔明と天下三分の計2

4.北征

 荊蜀を得た劉備は、孫権と同盟を結ぶと北征を開始。蜀の軍勢は黄忠が定軍山にて夏侯淵を斬り、荊州からは関羽が樊城に曹仁を囲み、于禁を捉えホウ徳を斬る。曹操はついに遷都を考えるほどで、劉備の勢いは最大となる。

 まさに「外では孫権とよしみを結び、」「荊州の軍を宛・洛に向わせ、」「益州の軍勢を率いて秦川に出撃」したわけである。

 ほぼ無一文からスタートし、孔明本人も自覚しながらも、時代の流れに敢えて逆らった天下三分の計が、実現しようとしていた。

5.関羽の死と夷陵の戦い

 しかし、ここで呉が突如裏切る。ついに呂蒙が荊州に進攻。関羽の軽率な言動がたたったためである。これには以下のような事情がある。

 「これよりさき、孫権は使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽はその使者を怒鳴りつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた。」(「蜀書」関羽伝)

 結局関羽は孫権に斬られてしまうが、ホウ統が荊州に在留していたならば上のような事態を傍観しなかっただろう。さらに劉備は、孔明・趙雲の制止を振り切って呉へ親征するが、大敗して蜀軍は大損害を受ける。

「蜀の陣営はばらばらに崩れて、その死者の数は数万人にものぼった。」

「蜀の艦船や軍器、それに水軍や陸軍の軍糧が失われてしまい、屍骸は水に漂い、長江 を埋めて流れ下った。」(「呉書」陸遜伝)

 このとき孔明はおそらく魏に備えるため蜀にとどまる。ホウ統が存命であればあるいは従軍したかもしれない。

荊州は失われ蜀一州となり、白帝城にて劉備は死亡。孔明自身に落ち度があったどうかはともかくとして、この時点で天下三分の計はほぼ挫折することになった。

6.結論

一時は成功するかに見えた天下三分の計だが、

ホウ統の死→荊州に有能な軍師の不在→呉の裏切り→関羽の死→夷陵の戦い→劉備の死

と連鎖的に天下三分の計は崩れてしまった。しかしながら、まったくの無一文からスタートして、 己の計画を実現しかけた孔明はやはり偉大だったというべきだろう。 しかも孔明が闘った相手は決して凡庸な人物ではなかった。 曹操、孫権、周瑜ら中国のほかの時代であれば天下統一を成し遂げてもおかしくなかった英雄たちばかりであった。 しかも彼らはすでに大勢力を築いていたのである。その状況で無一文の劉備に仕え彼らと戦うとは孔明の自信は底知れぬものがあったのではないだろうか。 そして何よりその計画を論ずるだけでなく実際にある程度成功させたという点が孔明の偉大さだと思う。 彼は自身を管仲・楽毅に例えたが、羅漢中が水鏡先生に言わせているように張良・太公望クラスの人物であった、 と言えるだろう。

続きは孔明と天下三分の計3をご覧ください。

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