まず、天下三分の計について確認しておこう。
「(劉備が)もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち」、「外では孫権とよしみを結び」、「1人の上将に命じて荊州の軍を宛・洛に向わせ」、「将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば」、「覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。」(「蜀書」諸葛亮伝)
ポイントだけ述べれば、おおよそ以上となる。
天下三分の計の実現の第一歩が、南荊の確保ということになる。赤壁で勝ったのは呉だったにもかかわらず、劉琦を刺史として大義を得ると素早く四郡を制圧。孔明を得る以前の劉備には見られない迅速な行動だといえる。こうして天下三分の計の実現の第一段階として劉備は南荊を得ることに成功した。
そして次のステップが蜀攻略となる。軍師としては孔明ではなくホウ統が従軍。孔明は荊州に残ることになる。劉備とホウ統は楊懐と高沛を斬るなど、順調に軍を進める。しかし突如流れ矢に当たって死亡。重要な参謀を失うことになった。
そもそも荊蜀の二州は地理的に互いに離れており、かつ荊州は魏呉両国と接する重要な場所である。さらに守るに難く攻めるに易い土地でもある。であるからもしホウ統が生きていたと仮定した場合、おそらく孔明ホウ統のどちらかが、荊州に駐屯しただろうことは容易に推測できる。後の関羽の荊州での軽率な行動を見ると惜しい人材を失ったと言わざるを得ない。
いずれにしても荊蜀をえて、劉備は「荊州と益州にまたがって支配し」、「その要害を保」つことに成功したわけである。
続きは孔明と天下三分の計2をご覧ください。
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