有名な智謀の士「賈ク」について考察する。 「ク」は「言」ごんべんに「羽」はねと書くが漢字が環境依存文字で 正しく表示されないためカタカナで書きたい。
賈クが最初に歴史に影響を与えるのは李カク・郭シの乱が最初である。 陳寿『三国志』に次のような記述がある。 董卓が王允・呂布に殺された直後の状況の記述である。
「賈クは牛輔の軍中にいた。董卓が敗死すると、牛輔もまた死んでしまったので、
兵隊たちは恐れおののき校尉の李カク・郭シ・張済らは軍隊を解散し、間道づた
いに郷里に帰りたいと考えた。賈クはいった、「聞けば、長安では、涼州人を皆
殺しにしようと議論しているよし。それなのに、あなたがたは兵隊たちを棄てて
単独で行かれる。それでは亭長(亭は最小の行政単位) 一人で、あなたがたを
捕えることができますぞ。軍勢をひきつれて西へ向い、行く先々で軍兵を集め、
それで長安を攻撃して、董公の復讐をするほうがよいでしょう。幸いにしてうま
く事がはこんだ場合には、天子さまを奉じて天下を征伐すればよし、もしうまく
はこばなかった場合には、それから逃亡しても遅くはないでしょう。」人々はみ
なもっともだと思った。李催はそこで西へ向って長安を攻撃した。」
(『魏書』賈ク伝)
見るも醜怪な李カク・郭シの乱は賈クの助言から始まったのである。 賈クの一言がなければ李郭の乱はなかったであろう。
この大乱の詳細は董卓伝に記述がある。
「(李カクらは)もと董卓の配下であった焚桐・李蒙・王方らと合流して長安城を包囲し、 十日で城は陥落した。〔彼らは〕呂布と城中で会戦し、呂布は敗走した。 李催らは兵を放って、長安の人々を老若を問わずひっとらえ、彼らを全部殺戮し、 死体があたりに散乱した。」 (『魏書』董卓伝)
「この当時、三輔(長安を中心とする地域)の戸数はまだ数十万あったが、 李カクらが兵を放って略奪をはたらき、町や村を攻略したため、人民は飢餓に苦しみ、 二年の間に互いに食らいあい、ほとんど死に絶えてしまった。」 (『魏書』董卓伝)
徳義心のかけらもない李カク・郭シらが権力をとったことにより天下は大いに乱れ てしまい、これでは董卓の時代のほうが一定の安定があったというべき状況になった。
『三国志』の注釈者の裴松之は李カク・郭シの乱を引き起こした張本人として賈ク をきわめて強烈に批判している。
「悪の中心(董卓)はすでに獄門台にさらされ、世界がようやく明るくなろうとしていたのに、 災いの糸口を重ねて結び、害悪を盛んにまき散らして国家を衰微の憂き目にあわせ、 人民に周末期と同じ苛酷さを味わわせることになったのは、賈クの片言のせいではなかろうか。 賈クの犯罪の、なんと大きいことよ。昔から動乱の端緒となったもので、 これほどひどいのは、いまだかつてあったためしがない。」 (『魏書』賈ク伝注釈)
賈クが李カクに長安を攻めるよう助言しなければ賈ク自身の命も危なかったのであるから、 賈クが助言したのも彼にとっては仕方がなかったとも言えよう。 しかし賈クの一言がなければ天下は再び平安を取り戻していた可能性がないわけではない。 裴松之の批判はある程度当たっているといえるだろう。
続きは賈ク論2をご覧ください。
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■上部の画像は中国宋代の花鳥画「蜀葵図」。作者不明。日本では出版されていないと思います。
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