「生まれながらにして道を知る者」は生まれつき道を知っているのであり、 「学んで道を知る者」は生まれつき道を知るための素質があり、その後学んで道を知るのである。 この2者は我々凡人には参考にならない。生まれつきの素質が違うからである。
その点「人生にゆきづまり道を学んだ者」は興味深い。 平凡な人間でも人生にゆきづまるほどの悩みを持った場合、 道を知る人物になれる可能性を示唆しているからだ。
そこで人生にゆきづまって道を学ぶ者と道を学ぼうとしない者の違いを考えたい。
道を学ぼうとしない者から考える。
つらい経験があり人生にゆきづまりどうしようもなくなった人は、 多くの人から「かわいそうな人」だと言われる。 「かわいそう」と同情されるのは確かに共感してもらっているわけだが、 同時に下に見られているという側面もある。
これが「困しみて学ばざる、民これを下と為す」の意味だと私は考える。 私訳では「人生にゆきづまっても道を学ぼうとしないのは、一般の人民からも劣った人だと言われる」 と解釈した。みんなから「かわいそうな人」として下に見られている、という意味である。
では人生にゆきづまった人は常に「かわいそうな人」であり皆より下の人なのだろうか。 もちろんそうとは限らない。
「困しみてこれを学ぶはまたその次なり」がその理由だ。 私訳では「人生にゆきづまって道を学ぶものはさらにその次に良い」と解釈した。 要は人生にゆきづまった人は「道」を学ぶ可能性がある、と孔子は述べているのだ。
人生にゆきづまった人は痛切な悩みを持っている。
痛切な悩みを持っている人は当然そこから抜け出したいと切に願う。
深い悩みを根本から正しく解決するちからを持っているのは、儒教または仏教で言う「道」なのであるから、
痛切な悩みを持つ人はその悩みが深いほど「道」へ至るための動機と資格を持つのである。
人生にいきづまった人が嘆くだけで自分の悩みを解決しようとしなければ、「かわいそうな人」となる。 一方解決しようと努力し、結果「道」を知るに至れば、「困しみてこれを学ぶ者」=「道を知る者、偉大な人物」となる。
映画『もののけ姫』の主人公アシタカが腕に呪いを受けて人生にゆきづまり、
その「呪い=悩み」を解決しようと努力していく過程を別記事で解説した。
→もののけ姫 解釈1
人生にゆきづまった人は道に至るきっかけを得た人として道を知る人物になる可能性を持つとともに、 「かわいそうな人」として下に見られる両方の可能性も持つと言える。
私の推測では孔子自身は「人生にゆきづまって道を学んだ」人だと思う。 孔子は非常に謙虚な人だったので 自分と違うタイプの人である「生まれながらにして之を知る者」を最も優れた人だと言った。 孔子は「我若くして賎し(わたしは若い時卑しい人間であった)」とも言っている。 謙虚な孔子ならではの言葉だが、卑しい人間ではなかったにせよ平凡な人間であったことは推測できる。 孔子の徳は人生にゆきづまることと道を学ぶことによって後天的に作られた、ということである。
■上部の画像は尾形乾山
「八橋図」。
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