論語では「道」を知るパターンが3通り述べられている。 論語を手に取る人は、孔子の会得した「道」を知りたいと思い読むのだろうが、 道を知るようになるためのきっかけとして孔子自身が3つのパターンを紹介しているのは興味深い。
現代日本で『論語』の訳として一番普及しているのは岩波文庫の金谷訳だろう。 孔子の穏やかな人柄が伝わってくる訳で、名訳だと思う。 解説は少ないが、簡潔でかつ良い文章になっている。 岩波文庫の中国思想は金谷訳が多く、 私自身中国思想に関してはほとんど授業を受けておらず、 岩波文庫の金谷訳で学んだようなものである。 しかし重要な箇所に誤訳がある。例えば今回の記事で取り上げる季氏第十六の九。
書き下し文
孔子の曰わく、
生まれながらにしてこれを知る者は上なり。
学びてこれを知る者は次なり。
困しみてこれを学ぶは又その次なり。
困しみて学ばざる、民これを下と為す。
金谷治訳
孔子がいわれた、
「生まれついてのもの知りは一番上だ。
学んで知るのはその次だ。
ゆきづまって学ぶ人はまたその次だ。
ゆきづまっても学ぼうとしないのは、
人民でも最も下等だ。」
私訳
孔子がいわれた。
「生まれながらにして道を知る者は最も優れている。
学んで道を知るのはその次だ。
人生にゆきづまって道を学ぶものはさらにその次だ。
人生にゆきづまっても道を学ぼうとしないのは、
一般の人民からも劣った人だと言われる。」
論語の通奏低音は「道」であり、「生まれながらにして之を知る」と書かれてあるときは 「之」は「道」を指す。 それを「もの知り」と訳したのはあんまりだと思う。 鄭玄、朱熹、仁斎、徂徠の解釈はどうなっているか知らないが、 金谷治ほどの人がこんな誤訳をするとは考えづらい。
仕方ないので自分で訳したが、いずれにしても孔子は私訳で掲げたように道を知るパターンとして3パターンを挙げている。 さらに詳しく解釈していきたい。
続きは論語~道を知るきっかけ2をご覧ください。
■上部の画像は尾形乾山
「蔦紅葉図」。
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