主体的な学習と総合学習が必要と最近言われている。
主体的学習、総合的学習、それら二つに必要なのは痛切な動機である。例えば痛切な悩みである。 悩みが痛切なほど、それを解決したいという気持ちは当然強くなる。 それを解決するための学習への動機も当然痛切になる。 そして痛切な動機があれば学ぶ姿勢は無論主体的になる。主体的な学習が実現する。
そして痛切な悩みを解決するために学習した内容はなぜか自然と総合される。
自分の悩みが核となり知識が自動的に総合される。総合学習が実現できるわけだ。
そして何より得た知識は活きた知識になる。活きた学習になる。
そしてその個人的な悩みは実社会と関連している場合も多く、
学生は自分の角度から実社会に痛切な問題意識を持つようになる。
さらに大人になってからもその問題意識を核として知識は総合されていく。
その悩みが十分に深いものであれば、その悩みが時代の本質と関連している場合すらある。
以上が理想的な自発的学習、総合学習のありかたである。
別記事でアニメ『もののけ姫』を例にとって総合学習について考察をした。
→もののけ姫 解釈1
内発的動機なしに単に総合的な知識を教えても総合学習にはならない。 例えばえん罪について教師が教えたとする。 えん罪は法律の知識、証拠の認定のための科学の知識、道徳や倫理についての考え方など 分野横断的な総合的知識が必要だ。一見総合学習にうってつけのようだ。 しかしえん罪について興味のない生徒に教えても、主体的な学習にならず、 決して活きた知識にはならない。本当の総合学習にはならない。 分野横断的な知識を詰め込むだけになり、新たな詰め込み学習になるわけだ。
では最初に述べた学生の個人的な悩みに根差した理想的な総合学習を学校で実現すべきだろうか。 それは不可能だ。第一に学生の悩みは人それぞれで統一的に教えられない。 第二に学生の内面的悩みを教師に伝えるべきでない場合は多い。 信頼できる教師ばかりではないし、教師を信頼する学生ばかりでもないからだ。 第三に時間的余裕と信頼関係があったとしても、教師は正しく教えられない場合が多いと思う。 ではどうすればいいか?
続きは総合学習とキャリア教育2をご覧ください。
■沖縄民謡 『谷茶前』
■沖縄民謡 『安里屋ゆんた』
■上部の画像は尾形乾山
「茄子図」。
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