私が使った手法は形相的なものと質料的なものを挙げて、形相的なものに価値を認め、質料的なものを否定するという方法である。 なんのこっちゃ分からんので言い直す。 私は学者ではないので哲学用語は正確に使わず非常に乱暴なのでご了承いただきたい。
形相的なものとは本質的なものであり、目的である。質料的なものと言うのは材料的なものであり手段である。 これでも分からんので具体的に述べる。
私はいろんなところに思想を見ると言った。旅行先の街。一本の樹。それらのインスピレーションが哲学の本質だ。 免疫のシステムの授業を聞いた時に私が驚いたのも、ある雨の日に大きな芋虫がその体を波打たせてはい回るのを見て、 私の思想などおよびもつかないほど神秘的な思想がそこにあると驚いたのも、インスピレーションであり哲学の本質だと思う。
アリストテレスが「哲学は驚きだ」と言った。この言葉は大学1年生が哲学入門の授業の時に聞く陳腐な常套句とされるが、 実は非常に深い意味があると思う。 アリストテレスは私などとは比べ物にならないくらい様々なものに驚きを見出したはずである。 その驚きがインスピレーションであり哲学の本質である。
そしてその本質をインスピレーションを論理的に思想として表現する時の手段が言葉である。
わたしが「本当の哲学は言葉で語るものではない」という時、 本質であるインスピレーションを重視し、手段である言葉を軽視したのである。 形相的な本質を重視し、質料的な手段を軽視したのである。
「本当の絵は絵の具で描くものではない」というのも同様である。 画家が見出すインスピレーションが絵の本質であり表現したい目的である。 絵の具は表現のための材料であり手段である。 やはり本質を重視し手段を軽視した表現になっている。
「本当の権力者は地位を持たない」というのも 本当の権力者の本質はその人格である。地位はその人格により世の中をよくするための手段である。 やはり本質を重視し手段を軽視している。
他の言葉も同様である。
私にはこれらの言葉を述べる資格がないから本来述べてはならない。 『論語』里仁第四に次の言葉がある。
書下し文
古者の言の出さざるは身の及ばざるを恥じればなり。
現代語訳
昔の人が軽々しく言葉を出さなかったのは自分のその言葉にみあう実力が伴わないのを恐れたからである。
自分の実力が伴わない内容は述べてはいけないというのが原則である。 しかし私は自分が述べる資格のない内容を述べてしまった。 それには一応理由がある。
『近思録』論学に次の言葉がある。
書下し文
聖賢の言はやむを得ざるなり。けだしこの言あれば、すなわちこの理明らかに、この言なければすなわち天下の理に欠けるあり。
現代語訳
聖賢の言葉はやむをえず発せられる。この言葉があればこの理論は明らかになる。この言葉がなければ天下にこの理論は欠けてしまう。
私が聖賢ではないのは120%分かっている。しかしこれは聖賢だけの問題ではなく、思想を述べるものすべて体験する問題だ。 自分の実力以上の言葉を発してはならない。しかし自分の思想は述べなくてはいけない。 言うべきか言わざるべきか・・。思想家のジレンマである。恐らく思想を扱う人間はみなこの経験があると思う。 私の場合は、いろんな分野で活動する人たちのインスピレーションについて、私なりの仕方でそれなりに関連付けて述べることにすこしは意義があると考えた。 しかし実力以上の発言になる。どうするか・・。プラスとマイナスを比較衡量してプラスが少し多いと判断したため述べてしまった。
孔子は非常に謙虚であり、言葉を出すのに慎重であった。 恐らく孔子は他人には述べていない自分の思想があったはずである。しかしそれを述べると実力以上の発言になると考えた。 彼も思想家のジレンマに陥ったのである。 それで彼は自分の思想を遺書というかたちで残したと私は考える。苦渋の決断だ。 「孔子の遺書」という記事でその点は詳しく述べた。
私の発言は本来述べてはいけない内容だった。思想家として述べる以上は。 これが小説だと違う。もっと自由だと言う。
WEB小説家、魔王源が『異端審問』で次のように言っている。下記がリンク。
魔王源
小説は圧倒的に自由だ。
どんなに重い責任を背負っていても、どんなに時間が限られていても、小説は書ける。
少なくとも短編小説なら、どうにか仕上げられる。
道具もほとんどいらないから、場所を選ばずに書ける。
通勤電車の中だろうが、ショッピングモールのベンチだろうが、筆記用具さえあれば、小説は書ける。
万が一身体能力の一部を失っても、小説には影響が少ない。
視力がなくなるのは厳しいが、それでも可能性がゼロになるわけではない。
他の分野だとこうはいかない。
映画を撮れる人間は限られている。
漫画には膨大な時間がかかるし、描ける場所も限定される。
スポーツは、年をとると残酷なくらい能力が低下していく。
小説は違う。
小説は年齢の制限を受けない。
場所の制限を受けない。
イケメンである必要も、美少女である必要もない。
あらゆる人間に可能性が開かれている。
こんなに自由なものは、他にない。
また、小説はブログよりも自由だ。
「殺したい奴がいる」みたいなことをブログで書いたら、洒落にならない。
「どうして盗みや詐欺が悪い事なのか、理解できない」とブログで書いたら、確実に友達をなくす。
自分の意見として書いてしまったら、トラブルになってしまうようなテーマや問題――そんなどこにも持っていきようのない、ぐつぐつした思いを昇華する力を、小説は持っている。
自分の意見として世間に表明するほどの確信はないけれど、密かにこれは正しいのではないかと思っていること――そんな思いを、キャラクターに託す。
その結果、やはりこれは正しかったとか、間違っていたとかいう結論が出せたのであれば、それだけで大いに価値がある。
魔王源『異端審問』
「本当の絵は絵の具で描くものではない」と私は書いたが、本当は私が言ってはいけない言葉だ。 しかし小説で画家を登場させてその人物に言わせれば、もしかしたら問題ないかもしれない。 自分の考えを自粛しなくていいというわけだ。 ある意味ずるいが、ある意味うらやましいと思う。 小説家には思想家のジレンマは存在しないのだ。
私は小説は書けない。 人間努力は大切だが、努力の副作用も一応ある。 私は大学在学中に論文を書く努力をした。非常に努力した。 そのため文章を書くときは論理的な文章しか書けなくなってしまったのである。 小説や詩は書けない。
続きは自然のプログラムをご覧ください。
■上部の画像はガウディ
■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。
作成日:2019/8/6