インスピレーション

日頃考えていることを思いつくに任せて目的もなくつらつらと書いていく。 徒然草か・・・?

まずインスピレーションについて。

WEB小説家に魔王源という人がいる。下記がリンク。
魔王源

『異端審問』というエッセーから引用する。

ひとたび文学を覚えると、人生に退屈することがなくなる。
あらゆるものから、意味を抽出できるようになるからだ。
普通の人からすると退屈で仕方がないもの――例えば電柱の脇に生えている雑草だとか、そういったもの――の中にすら、楽しみを見つけられる。
それが文学の持つ力だ。

私は小説は書けないから、彼がどういう意味でそう言っているかはわからない。 強引に推測すると、何の変哲もない求人雑誌の求人広告からもストーリーを紡ぎだせたり、 道端に落ちている空き缶からも何らかの物語を連想できるのだろうか。 言っている意味はよくわからない。

しかし気持ちはわかる。 私も日常のいろんなものに思想を見出すことがあるからだ。

絵画を見るときも、建築を見るときも、一本の樹を見るときも、 歴史の本を読むときも、そこに思想を見る。 工場で作られた平凡なパンを食べるときにもそこに思想を見る時がある。

それは私や魔王源だけではないはずだ。 何か自分の得意分野を持っている人の中には、いろんなところからインスピレーションを得る人が一定の数いると思うのである。

魔王源は、電柱の横に生えている雑草に文学を見るのかもしれない。恐らく日常のあらゆるところに文学を見るのであろう。 私も日常の平凡なものにも思想を見ることがある。

以前、松本人志さんが言っていたが、彼もたとえば旅行などに行ったときに、何か面白いものを見つけて、 それを笑いの技術を通してみんなに伝え、笑いをつくると言っていた。 彼もわれわれが気付かないいろんなところに笑いを見出すのかもしれない。

『恋愛小説家』という映画がある。 画家が次のように述べている。

僕がすることはまず見ることだ。 君は誰かを長い間じっと見たことはあるかい。 それも君に見られていると気づいていない誰かを。 バスに座っている年老いた女性。 学校に行く子供たち。 誰かを待っている人・・。 見ていると突然その人の表情が輝きだす。 そしてそれは周囲の状況とは関係がない。 だって周りの状況は全く変わっていないんだから。 そんな時彼らの表情は真に迫り生き生きとしている。 つまり長い間、誰かを見ていると、その人の人間性を発見するんだ。

そしてそれが画家にとってのインスピレーションということになる。 画家にとってインスピレーションはいろんなところにあり、 画家はそれを写し取って作品にするのであろう。

私の話に戻るが、私もいろんなところに思想を見る。 少なくともそういう時はある。 そういう生活をしていると、思想というのは言葉で語るものではないような気がしてくるときがある。

家の近くの一本の樹も思想だし、大きな芋虫がはっている姿も思想だ。詳しくはないが物理学だって思想だし、ガウディの建築も思想である。 インド料理も思想。子供が大勢で生き生きと遊んでいる姿も思想である。 三国志も思想。三国志に至っては中国思想との区別がつかない。中国思想を具体化したものが三国志に出てくる人々の人生である。 三国志にえがかれる数多くの人生たちを抽象化したものが中国思想だ。

本当の思想は言葉で語るものではない。

私が考えた言葉だが、私がこの言葉をどれほど理解しているかはわからない。 自分で言った言葉を理解していない可能性がある。

その証拠を挙げよう。 わたしは似たような言葉をいくつも作れる。 理解していないにもかかわらずである。例えば・・。

本当の絵画は絵の具で描くものではない。

『恋愛小説家』の画家は、人を長い間見てその人の表情からインスピレーションを得た。 画家にとっては絵とは絵の具で描くものではなく、いろんな自然や人物、街や物などに見いだされるものかもしれない。

ゴッホの夜空の絵には異様な迫力がある。 私はあんな風に夜空を眺めたことはない。 ゴッホにとって本当の絵とは夜空を見た時のインスピレーションの中にあったのかもしれない。

画家が自分のインスピレーションを写すと芸術作品になるのだろう。 画家がインスピレーションではなく物を忠実に写すと写実画になる。 これは芸術ではなく技術だ。 リンゴのデッサンだとどこに光が当たりどこが陰になるかを厳密に考えていく。 ちょっとした物理学のようになってしまう。 これは明らかに芸術ではなく技術だ。

話がそれた。

「本当の絵画は絵の具で描くものではない。」 という言葉を私は本当の意味では理解していない。概念的に理解しているだけである。 そんな言葉を述べる資格もない。それは重々承知している。 ゴッホの話をしたが私は東洋の絵画はよく見るが、西洋絵画はあまり理解しない。 本当はゴッホの絵をそんなに深くは理解していない。 しかし哲学の手法を使えばこんな言葉はいくつも作れてしまう。 哲学の不誠実な側面だろう。

続きは本当の権力者は地位を持たないをご覧ください。


■上部の画像はガウディ

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作成日:2019/8/6

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