学問の確実性

福太郎:先輩今日は何の話ですか?
佐平:学問の確実性について話す。徒然的に話していくぞ。思いつくに従ってどんどん話はあっちこっちに飛ぶと思うが了承しといてくれ。
福太郎:ええ。学問の確実性ですか?
佐平:オレたちは根っからの文系だな。
福太郎:ええ。
佐平:文系の人間からの印象として物理の法則は確実だと思うか?
福太郎:いきなり物理学の話ですか?我々には物理学は分かりませんよ。
佐平:ああ。文系の人間の素朴な印象でいいんだ。素人の素朴な印象を聞きたいんだ。物理の法則は確実と思うか?
福太郎:思います。当然です。
佐平:なぜだ?
福太郎:だって物理の法則は数式で書かれてますよ。だから確実なはずです。
佐平:そこだ!!
福太郎:うわっ!何ですか?
佐平:我々素人は物理学の法則が数式で書かれているから、物理法則は数学の定理のように確実だと思ってしまう。
福太郎:ええ。違うんですか?
佐平:違う。物理学は確かに物理現象を説明するのに数式を次々と展開していく。物理学の授業にもぐった時、微積分を用いて数式を次々と展開していく様子を見て、実に圧巻だと感動したものだ。
福太郎:ええ。
佐平:でもそれはあくまで理論だ。理論は数学によって展開されていく。しかしその理論が現実に当てはまるかどうかは数学的に決まるのではない。
福太郎:どうやって決まるんですか?
佐平:実験によって決まる。理論が現実に当てはまるかは実験結果で決まるんだ。
福太郎:でも実験したら理論どおりになりますよね。
佐平:そうとも限らない。
福太郎:本当ですか?
佐平:教授が言うには物理の実験であまりに数式通りの実験結果になるとかえって怪しまれるそうだ。実験の不正を疑われる。
福太郎:でもそれは完全で理想的な実験を行うのが技術的に困難だから結果が数式とずれるだけですよね。完全な理想的な環境で実験したら、数式通りになるんじゃないですか?
佐平:そうかもしれない。アインシュタインの言葉で次の言葉がある。
経験とは無関係な思考の産物である数学が、なぜこれほど見事に現実の物体に当てはまるのか。
福太郎:やっぱりそうですよ。物理世界は数式通りになります。
佐平:でも次の言葉もある。
数学の法則を現実に当てはめるならば、それは不確かなものになる。数学の法則が確かであるならば、それは現実には当てはまらない。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:前半の「数学の法則を現実に当てはめるならば、それは不確かなものになる。」というのは、恐らく「数学が物理世界という現実に当てはまると仮定すると、物理世界は不確かな動きをするので、数学も不確かなものになる」という意味か。
福太郎:なるほど。
佐平:後半の「数学の法則が確かであるならば、それは現実には当てはまらない。」は「いやいや数学は完全です。不確かなのは物理世界のほうですよ。と仮定するのならば数学は物理世界には完全には当てはまらないということになる。」という意味だろう。
福太郎:ええ。この言葉はさっきの言葉と矛盾しているようですが。
佐平:数学は物理世界にほぼ当てはまるが、厳密には当てはまらないということだろうか。
福太郎:ええ。
佐平:もちろん我々は素人だから物理の法則が厳密に現実の物理世界に当てはまるかは確かな判断はできない。しかし確かに言えるのは、物理法則が物理世界に当てはまるかどうかは数学的に決まらず、実験によって決まるということだ。
福太郎:なるほど。
佐平:一番単純な物理方程式に次の方程式がある。
F = mg
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:質量m [kg] の物体に働く重力はmg [N]であるという意味だ。
福太郎:なんのこっちゃ。
佐平:石が高いところから落下しておまえの頭の上に落ちたら痛いだろ。
福太郎:ええ。もちろんです。
佐平:痛いということはその石に力が働いているんだ。
福太郎:はい。
佐平:その力の大きさを求める式だ。
福太郎:分かったような分からんような。
佐平:その力の大きさは正確さを犠牲にして分かりやすく言うと、その石の重さと重力が引き起こす加速度を掛けた値になるんだ。
福太郎:よく分かりませんが、確かに重いものほど落ちてきたら危険ですね。
佐平:まあそういうことだ。
福太郎:ええ。
佐平:この法則は数式で書かれている。
福太郎:そうです。
佐平:でもこの法則が現実の物理世界に当てはまるかどうかは数学の定理のように確実なわけではない。
福太郎:そうですか。
佐平:確実かどうかは実験で決まり、ほぼ完全に当てはまるとしか言えない。物理法則は数学によって展開されるが、その物理法則が現実の物理世界に当てはまるかは数学的に決まるのではない。実験で決まる。
福太郎:むむ。
佐平:アインシュタインの言葉を引用するぞ。
数学がしばしば他の科学を超えて特別に尊重される理由のひとつは、その法則が絶対的に正確で明白であるということだ。いっぽう、他の科学はある程度議論の余地はあるし、常に新しい発見によって覆される危険にさらされている。
佐平:アインシュタインのいう通り数学は絶対的に正確だ。しかし物理学はそうではない。「常に新しい発見によって覆される危険にさらされている。」とある通りだ。物理法則は数式で表されているからと言って数学のように確実なわけではないんだ。少なくとも数学の法則の完全性と物理学の法則の正確さは性質が違う。
福太郎:そういう意味か。
佐平:理系の人であれば大学1年生でも知っているが、文系の人は大人でも知らない。
福太郎:たしかに科学法則は数学のように確実だと我々文系の人間は思い込んでますね。
佐平:そうだろう。
福太郎:そうは言っても物理学は非常に正確な学問ですよね。
佐平:そうだ。もちろんだ。
福太郎:他の学問はどうです?
佐平:生物学だな。
福太郎:ええ。
佐平:生物学は物理学より複雑であいまいだ。確実に当てはまるとは限らない。
福太郎:そうですか。
佐平:免疫でT細胞は感染細胞を食っていくが、なかには出来損ないのT細胞だってある。十分に機能しないT細胞も存在する。
福太郎:理論通りに行かないんですね。
佐平:物理学の法則と生物学の法則は性質が違う。理系なら大学1年生でも知っているが、文系の人は大人でも知らない。
福太郎:ええ。
佐平:生物学の授業にもぐって思ったのは生物学は歴史に近いということだ。生物進化の歴史。もっとも細胞レベルやもう少し下がって化学レベルでの進化だが。
福太郎:そうですか。
佐平:進化の結果形成された生物の身体の仕組みを学ぶ感じだ。
福太郎:ええ。
佐平:いずれにしても物理の法則と生物学の法則は性質が違う。
福太郎:はい。
佐平:物理学より生物学のほうが複雑で不確実だ。
福太郎:そうですか。
佐平:生物学は物理学より人間に近い。生物学より人間に近い学問として認知心理学がある。
福太郎:ええ。
佐平:認知心理学の教授曰く、「認知心理学の法則は普遍的であると証明されているどころか、普遍的ではないと証明されている」という。
福太郎:そうですか。
佐平:もっと人間に近くなるとフロイト派の心理学になる。
福太郎:現在では廃れている学問ですが。
佐平:そうだな。でも非常に面白いしまた復活する可能性がある。
福太郎:ええ。
佐平:さらに人間に近くなると倫理学がある。
福太郎:哲学のひとつですね。
佐平:これは人間の学問だ。
福太郎:ええ。
佐平:さらに複雑になると政治学がある。
福太郎:はい。
佐平:数学→物理→化学→生物→認知心理学→フロイト派→倫理学→政治学。
福太郎:ええ。
佐平:左のものほど確実でシンプル。右のものほど不確実で複雑になる。
福太郎:そうか。
佐平:政治学者自身、政治学のあいまいさと不確実性を認識している。モーゲンソーの『国際政治学』から引用する。
この論のなかに見られる要因はその徹底した不確実性ということである。しかもこの不確実性は、国内政治および国際政治の分野におけるあらゆるレベルの理論的分析と予言に特有のものである。
福太郎:なるほど。政治学は不確実性から免れ得ないというんですね。
佐平:ああ。世界は数学並みの完全な法則で動いているかというとそうとは限らない。
福太郎:そうでしょうね。
佐平:決定論と非決定論というんだ。もちろん決定論をとる科学者もいる。本当はこの辺も複雑系科学とあわせて学びたいんだけどな。
福太郎:また出た。先輩の下手の横好きですね。
佐平:そうだな。中国思想と近代イギリス思想を学ぶのが本分だからな。
福太郎:本格的にやらないで少しやってみたらどうですか。本とか読んで。
佐平:自分の不慣れな分野は本だけ読んでもなぜかよく分からん。動画でも分からん。なぜか対面授業じゃないと分からんようになっている。
福太郎:え~っと。先輩は科学に詳しくないんですか。
佐平:ないね。科学のことは知らん。
福太郎:知らんのかい!!めっちゃ偉そうにしゃべってましたよ。
佐平:知らんな。間違えたことを言ってないかひやひやしているんだ。各方面からのお叱りは覚悟の上だ。
福太郎:まあいいです。みなさんこの人の言っていることは鵜呑みにしないようお願いします。
佐平:本当は物理、化学、生物の授業にはもぐりたいんだ。法律の勉強の時も本だけで1週間かかって分からなかった内容が、対面授業だと5分で分かった。科学も現段階ではひとりで読み進めるのは難しい。
福太郎:そんなもんです。
佐平:自称思想家だから思想に関しては変な授業受けるより古典と一対一で向き合ったほうが得るものは多い。かなり習熟した分野は自分でやったほうがいい。
福太郎:ええ。
佐平:複雑系も本当は勉強したい。近代科学がアナロジー的に応用されて近代哲学ができたように、複雑系をアナロジー的に社会科学に応用するだけで新しい思想が紡げる気がする。
福太郎:そうですか。
佐平:ある科学者が現代哲学を批判して「現代英米分析哲学はトートロジーにすぎない。現代独仏哲学はアナロジーにすぎない。」と言っていた。たしかに物理学のように精密で正確で体系的で圧倒的な論理構成を行う分野からしたら哲学は理論的には弱いのかもしれないな。
福太郎:ええ。もちろん思想には思想のすぐれた点もありますが。
佐平:そうだな。それにトートロジーは無意味かもしれないが、アナロジーは意味があると思う。
福太郎:分かります。
佐平:政治学のあいまいさについてモーゲンソーの『国際政治学』から引用する。
国際政治学の本性と様式についての理論的研究が直面するもっとも侮りがたい難点は、観察者が扱わなければならない素材の曖昧さである。彼が理解しようとする事象は、一方においては、他に類例のない出来事である。その事象は、後にも先にもたった一度きりそのように起こったものである。他方これらの事象は、それが社会的な力の表現であるがゆえに相互に類似している。社会的な力は人間性が行動に移された結果生まれたものである。したがって、類似した条件の下では事象は同じような様式であらわれる。しかし類似性と独自性の間のどこに線がひかれるのであろうか。
福太郎:意味が分かりません。
佐平:モーゲンソーが例として挙げているのはナポレオン、ヴィルヘルム2世、ヒトラーだ。
福太郎:なんのこっちゃ。
佐平:3人ともヨーロッパ大陸を支配しようとした。
福太郎:そういう意味か。ナポレオンはヨーロッパ大陸を支配しようとしてロシア遠征に敗れ、イギリスに海戦で敗れたんでした。
佐平:そうだな。
福太郎:ヴィルヘルム2世って誰?
佐平:第一次世界大戦を起こした張本人だ。ビスマルクを解任したドイツ皇帝。彼もヨーロッパ支配を試みたと言っていいかもしれない。
福太郎:第一次世界大戦はドイツの負けですから失敗したんですね。
佐平:ああ。英米仏に負けた。
福太郎:ヒトラーもヨーロッパ支配をもくろみました。
佐平:ソ連と英米に負けた。
福太郎:ええ。
佐平:これら3つの事象はそれぞれ別の事象だ。
福太郎:ええ。
佐平:「彼が理解しようとする事象は、一方においては、他に類例のない出来事である。その事象は、後にも先にもたった一度きりそのように起こったものである。」とあるだろう。そういう意味だ。3つの事象はそれぞれ個別の事象という意味。
福太郎:はい。
佐平:しかしこれら3つの事象は似てもいる。
福太郎:確かに。3人とも同じようにヨーロッパ大陸を支配しようとして失敗しています。
佐平:そうだ。「他方これらの事象は、それが社会的な力の表現であるがゆえに相互に類似している。社会的な力は人間性が行動に移された結果生まれたものである。したがって、類似した条件の下では事象は同じような様式であらわれる。」とある通りだ。
福太郎:え~っと。
佐平:人間性が行動に移されたとき社会的な力が生じる。その社会的な力によって社会的な事象が生じる。人間性は基本的に不変なので、類似した条件下では社会的な事象は同じような様式で表れる。
福太郎:よく分かりませんが。3つの事象は似てもいるという意味ですね。
佐平:そうだ。要は社会的事象は類似性もあるが独自性もある。
福太郎:似てもいるけど違ってもいるんですね。
佐平:ああ。中国史でいうと、後漢末の黄巾の乱と元末の紅巾の乱と清末の白蓮教徒の乱は王朝末期の民衆の反乱で宗教的傾向を帯びているという点で類似している。でもそれぞれ1回きりの事象でもある。
福太郎:ええ。「類似性と独自性の間のどこに線がひかれるのであろうか。」というモーゲンソーの言葉はどう解釈しますか?
佐平:モーゲンソーの言葉を引用するぞ。
三回にわたる大陸制覇の試みに付随して起こったあの惨事は、共通点の無い原因による数多くの偶発的事故ということになるのか。それとも結果の類似性は全体の政治状況における類似性、つまり再度試みようとする人々にとって考慮されるべき教訓を伝えるような類似性を示すのだろうか。
福太郎:え~っと。
佐平:ナポレオン、ヴィルヘルム2世、ヒトラーの3つの事象のそれぞれの独自性を強調すれば、モーゲンソーの言葉では「共通点の無い原因による数多くの偶発的事故」となってしまう。
福太郎:ええ。
佐平:しかし類似性を強調すれば、「つまり再度試みようとする人々にとって考慮されるべき教訓を伝えるような類似性を示す」となる。
福太郎:類似性を強調する立場から言うと、もう一度ヨーロッパ征服を試みる人はこの3つの事象から教訓を学ばないといけないというわけですね。要は類似しているから共通する法則と教訓を引き出せる。そう考えるべきか、それとも3つは別々の事例と考えるべきか、ですね。
佐平:そうだな。後漢末の黄巾の乱と元末の紅巾の乱と清末の白蓮教徒の乱の3つの事象から引き出された法則は、秦末の陳勝呉広の乱にも適用できるかどうかという問題と同じだ。
福太郎:ええ。
佐平:モーゲンソーの言葉を引用する。
ある政治状況は、ある対外政策を形成しその実践を呼び起こす。我々はそれぞれの政治的状況を取り扱う場合、次のように自問する。この状況はそれ以前の状況とどのように相違し、またどのように類似しているか。類似しているため以前の政策は再度容認されるのか。あるいは類似点と相違点がまじりあうことによって、その政策の本質はある面で修正されながらも維持されることになるだろうか。それとも相違点がその類似関係を全く損なって、それまでの政策を不適当なものにしてしまうだろうか。
佐平:政治の当事者は自分が向き合う仕事に関し過去の歴史を参照するかもしれない。過去の歴史で現在と似た事例があれば、以前うまくいった政策をもう一度行えばいいかもしれない。
福太郎:類似性にもとづく推論ですね。
佐平:もしくは相違しているから以前の政策は取り得ないと判断するかもしれない。
福太郎:相違点にもとづく推論です。
佐平:類似点と相違点が両方あるから、一部修正しながら同じ政策がとられるかもしれない。
福太郎:なるほど。その可能性もありますね。
佐平:これが「類似性と独自性の間のどこに線がひかれるのであろうか。」という言葉の意味だ。
福太郎:ええ。
佐平:さっき「国際政治学の本性と様式についての理論的研究が直面するもっとも侮りがたい難点は、観察者が扱わなければならない素材の曖昧さである。」というモーゲンソーの言葉を挙げたが、政治学の扱う事象は類似点と相違点があり非常にあいまいだと言うんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:モンテーニュの次の言葉がある。
どんな出来事もどんな形態も、他の出来事や形態と全く同一ということがないように、どんなものも他のものと全く違っているということはない。自然の側における巧みな配合である。もしわれわれの顔が互いに似ていないならば、我々は人間と獣を区別することができない。もしもわれわれの顔が互いに違っていないならば、われわれはお互いを見分けることができない。事物は全て何らかの類似によってまとまる。だがどの事例も首尾一貫していない。したがって経験から引き出される相対関係はつねに不備、不完全である。しかし人はどこかの点で比較をしてお互いを結び付ける。そんなわけで法則もまた重宝なものになる。法則は幾分歪曲された、こじつけの、偏頗な解釈によってわれわれの出来事のひとつひとつに適合するのである。
福太郎:なるほど。確かにわれわれ人間の顔は似てますね。
佐平:そうだろう。ぱっとみて「あ、人間だ」と分かる程度には似ている。
福太郎:そうですね。似てなかったら人間だと分かりません。動物との区別がつかない。
佐平:ああ。でも我々の顔は人によってある程度違ってもいる。
福太郎:ええ。違ってないと誰が誰だか分かりません。個人を見分けられない。オレと先輩の顔が全く同じだったら日常生活でかなりややこしい。
佐平:ああ。我々は確かに日頃「顔認証」で人を見分けている。
福太郎:そうですね。
佐平:インターネットでtwitterにログインする時、パスワードでログインするだろう。
福太郎:ええ。
佐平:パスワードで本人だと認証する。パスワード認証だ。
福太郎:そうですね。
佐平:サイトによっては指紋認証もある。指紋で本人と認証する。
福太郎:ええ。
佐平:インターネット以外の日常生活ではその人の顔で本人と特定している。
福太郎:そうか。顔認証ですね。確かに顔を見て「○○さんだ。」と判断します。人の顔はお互いにある程度似ていてある程度違うんですね。
佐平:モンテーニュの言葉は医学でも当てはまる。「このワクチンはコロナに効く」という命題がある。
福太郎:ええ。
佐平:でも「コロナ」と言ってもアルファ株もあれば、デルタ株もあるし、オミクロン株もある。
福太郎:なるほど。それらは互いに似ているけれど違ってもいる。類似性と独自性がある。
佐平:そうだ。これらは互いに似ているからすべて「コロナウイルス」と呼ばれる。「事物は全て何らかの類似によってまとまる。」とモンテーニュが言う通りだ。これらは類似しているから、「コロナウイルス」とまとめられる。
福太郎:ええ。
佐平:しかしその類似性は首尾一貫していない。「このワクチンはコロナに効く」と言っても、アルファ株には効くがデルタ株にはそこそこ効いて、オミクロン株には少ししか効かないかもしれない。
福太郎:ええ。
佐平:モンテーニュが「だがどの事例も首尾一貫していない。したがって経験から引き出される相対関係はつねに不備、不完全である。」と述べている通りだ。類似しているが相違点もあるから「このワクチンはコロナに効く」という法則は首尾一貫しない。効いたり部分的にしか効かなかったりする。法則には常に不備と不完全性がある。
福太郎:そうですね。
佐平:アルファ株には非常に効くしオミクロン株にも少しは効くから「このワクチンはコロナに効く」と言っていいんじゃないか、とやや強引にこじつけて法則が当てはまることにする。
福太郎:ええ。
佐平:「法則は幾分歪曲された、こじつけの、偏頗な解釈によってわれわれの出来事のひとつひとつに適合するのである。」とモンテーニュがいう通りだ。
福太郎:生物学でさえ法則はある程度あいまいなんですね。
佐平:ああ。政治学ならなおさらだ。『危機の二十年』に理想主義と現実主義に関する面白い法則がある。
理想主義者の典型的な欠陥は無垢なことであり、現実主義者の欠陥は不毛なことである。
未成熟な思考はすぐれて目的的であり理想主義的である。とはいえ目的をまったく拒む思考は老人の思考である。
佐平:理想主義者と現実主義者のそれぞれの短所を述べている。悪い意味での理想主義は現実を無視して理想を追い求める。それは若者の思考であってその欠点は無垢であることだ。
福太郎:分かる気がします。
佐平:それに対して悪い意味での現実主義は理想を持たない。世の中を良くするための理想を持たないんだ。だから不毛だ。夢を持たない老人の思考だというんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:さらに引用するぞ。
成熟した思考は目的と観察分析をあわせもつ。
佐平:理想主義に走る若者の思考でもなく現実のみを見る老人の思考でもなく、壮年の充実した思考は「目的である理想」と「現実の観察分析」の両方をあわせもつと言うんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:さらに引用するぞ。
こうして理想主義と現実主義は政治学の両面を構成するのである。健全な政治思考および健全な政治生活は理想主義と現実主義がともに存するところにのみその姿を現すであろう。
福太郎:理想主義と現実主義の両方をあわせもつのが正しい態度なんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:これは説得力があります。政治学の法則も確実な法則はあるじゃないですか。
佐平:そうだな。この法則は9割方あてはまる。確かに理想主義と現実主義の中間を行く人が成功しやすいし失敗もしにくい。しかし必ず当てはまるとは限らない。
福太郎:そうですか?
佐平:歴史を読んでいるとたまに強烈な理想家が現れる。「青い」とか「無垢」だとか言われようが自分の信念を貫く。例えば吉田松陰だ。
福太郎:そうですか。
佐平:彼は尊王攘夷という強烈な信念を持っていた。司馬遼太郎が『世に棲む日日』という吉田松陰と高杉晋作に関する歴史小説を書いている。彼によると吉田松陰の尊王攘夷の思想は現実無視だった。攘夷の計画も立てておりそれに基づいて長州は外国船を砲撃し攘夷を決行するが馬関戦争で英仏米蘭の四か国連合艦隊に敗北する。
福太郎:ええ。
佐平:確かに彼は現実無視の理想家だった。しかし彼が激烈な理想を持ちそれを後進の長州人に伝えることで、それまでは幕府に対して恭順だった長州が、暴れ牛のように尊王攘夷の旗印のもとに先頭を切って時代を動かしていく。倒幕を開始したのは長州だ。長州が先頭を切って幕末を動かした。吉田松陰は倒幕まで考えていなかったかもしれない。しかし長州の熱狂的な信念は吉田松陰がその起点になっている。彼は預言者的な強烈な思想を持っていた。
福太郎:なるほど。
佐平:『危機の二十年』に次の言葉がある。
もし宗教のもつ超理性的な願望とか情熱というものがないなら、どんな社会も絶望に打ち克って不可能なことを試みる勇気を持つことなどありえない。なぜなら正義の社会というヴィジョンはもともと実現不可能なものだが、しかしそれを不可能と考えない人たちだけがそこに近づくことができるからである。宗教のもっとも核心的なヴィジョンとはすなわち幻想である。そしてそれを毅然として信じることによってはじめて一部これを実現することができるのである。
佐平:吉田松陰は確かにある意味現実無視の理想家だ。しかしその理想を不可能と考えない人でもあった。そしてその理想の一部を現実化した。
福太郎:たしかに理想と現実の中間を行くという正しい定石からはみ出してますね。
佐平:もちろん吉田松陰も現実を重視しただろうけれど、それ以上に理想と信念を大切にしている。
福太郎:ええ。理想と現実を行くという原則は絶対的に当てはまるとは限らないのか。
佐平:ガンディーの非暴力不服従も同じだ。ガンディーは偉大な人物だ。有名な塩の行進で奇跡を起こした。当時イギリスの支配下にあったインドでは塩はイギリス帝国の専売で重要な収入源だった。
福太郎:はい。
佐平:それに対してガンディーは不服従運動を起こす。自分たちで勝手に塩をつくって売り買いをする。当然イギリスは勝手に塩をつくったインド人を逮捕する。インド人は黙って逮捕される。非暴力だからだ。しかし逮捕しても逮捕してもインド人は勝手にどんどん塩をつくっていく。イギリスは手の打ちようがない。まさかすべてのインド人を逮捕するわけにもいかない。
福太郎:なるほど。
佐平:この運動がインドに広がった。イギリスはお手上げだ。
福太郎:非暴力不服従の勝利ですね。
佐平:ああ。
福太郎:これは理想主義ですが現実無視ではないですね。
佐平:そうかもしれない。でも完全ではない。
福太郎:そうですか?
佐平:ガンディーの非暴力が効果的だったのは、ガンディーの戦う相手がイギリスだったからだ。イギリスは世論というものを非常に重視する。世論には理性が宿ると考える。以前別の記事で書いた。リンクを貼っておく。根本と末節の具体例4。イギリスには理性に対する信仰がある。世論を重視する。だからイギリスはガンディーの非暴力によるインドの世論と行動を無視できない。だからガンディーの運動はイギリスに対しては効果的だった。
福太郎:分かります。
佐平:しかしヒトラーに対してはガンディーの非暴力不服従は効果的ではない。
福太郎:そりゃそうでしょうね。
佐平:ヒトラーがポーランドに侵攻したときガンディーはヒトラーに手紙を書いて戦争停止を訴えた。当然黙殺された。
福太郎:そりゃそうです。
佐平:ガンディーはチャーチルにも手紙を書いた。イギリス本国が占領されてもドイツとの戦争を回避するようにと述べている。
福太郎:それは完全な現実無視ですね。
佐平:もちろんチャーチルはドイツと戦った。
福太郎:ええ。
佐平:チャーチルがガンディーの言った通りにしていたら、世界はヒトラーが支配する世界になったかもしれない。
福太郎:はい。
佐平:確かにガンディーは偉大だ。しかし偉大な人物にも短所があるというのは絶対に認識しておかなくてはならない。ガンディーには現実無視の側面があると認識しないといけない。そうしないとヒトラーが支配する世界が本当に実現してしまう。
福太郎:日本の憲法九条も同じでしょうか?
佐平:憲法九条の擁護者には二つのパターンがあると思っている。
福太郎:と言うと?
佐平:ひとつは「なんとなく戦うのがめんどくさいから軍備放棄でいいや。」という人たち。
福太郎:なるほど。それはガンディーとは違いますね。ガンディーは非暴力不服従ですが、戦います。非暴力的な方法で戦います。自分の血を流します。実際に最後は暗殺されました。
佐平:ああ。もうひとつは自分の命をはって平和憲法、憲法九条のために戦う人たちもいる。
福太郎:ええ。
佐平:これはガンディーの立場に少し近いのかもしれない。
福太郎:はい。
佐平:しかしガンディーも九条擁護者も現実無視だ。敵国に侵略されて「戦争反対!!」と声をあげて非暴力不服従で抵抗して敵国が退却してくれればそれでいい。しかしそうはならない。
福太郎:ええ。
佐平:敵国の意思決定者がイギリスのように国際世論を考慮してくれれば効果がある。ガンディーが成功したのはその戦略が対イギリスに特化されていたからだ。しかし侵略者が国際世論を考慮しなければ効果がない。
福太郎:結局非暴力不服従が成功するかは侵略者の良心だのみになるんですね。
佐平:オレは憲法九条に反対だ。もちろん平和が尊く戦争が回避されるべきであるのは当然で、平和に反対なのでは決してない。それは当然だ。しかし平和を実現する手段において護憲派と意見が違う。最後の手段としての軍事力は保持すべきだと思う。別の記事で詳述している。リンクを貼っておく。改憲か護憲か
福太郎:はい。
佐平:学問の不確実性を述べているが、不確実だからと言ってだから何でもありというわけではない。憲法九条のように明らかに間違いというのはある。
福太郎:ええ。
佐平:逆にこれはほぼ確実に正しいよな、というものもある。
福太郎:そうでしょうね。
佐平:なかなか線引きは難しい。
福太郎:はい。
佐平:ガンディーはインドで一時期偉大な影響力を持った。しかし当時の世界全体では必ずしも大きな影響力を持たなかった。もし大きな影響力を持っていたとして、チャーチルがガンディーに従ってドイツに対して非暴力を貫いたとしよう。そうすると世界はヒトラーが支配する世界になったはずだ。ガンディーがチャーチルの説得に失敗したからよかったけれど、成功していたらガンディーの非暴力思想の欠点があらわになったはずだ。
福太郎:そうですね。
佐平:J.S.ミルの『自由論』に次の言葉がある。
人間の場合でも、政治理論や哲学理論の場合でも、それが失敗していれば隠されて終ったはずの欠点や弱点が、成功するとあらわになる。
福太郎:なるほど。ガンディーの非暴力が成功してチャーチルをはじめとしてみながそれに従ったならば、非暴力思想の欠点があらわになったはずというわけですね。
佐平:ああ。ある人が高い地位につくとその人の欠点が顕在化するというのはよくあるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:豊臣秀吉もそうだ。彼は非常に上昇志向が強かった。
福太郎:ええ。完全な平民から天下人になってますからね。
佐平:彼は成功した。天下人になった。そして彼の上昇志向の欠点が明らかになった。朝鮮出兵で大失敗した。もし秀吉が最初から完全に失敗していて天下人にならなかったら、その欠点は顕在化しなかったはずだ。
福太郎:そうですね。
佐平:共産主義もロシア革命で成功したからその欠点が明らかになった。最初から失敗していればその欠点は顕在化しなかったはずだ。
福太郎:そうですね。こう見てくると「理想と現実の中間を行く」というのは大雑把に言って正しい法則なのかもしれませんね。ガンディーは偉大ですが、やはり現実無視なところがある。
佐平:そうだな。この法則は正しいとオレは思う。政治学の法則は大雑把に当てはまる。でもやはり政治学では不確実性は残る。
福太郎:事実と論理だけに基づいて判断すれば客観的な審理に到達できるというのが科学の考え方ですが、政治学ではそれは出来ないんでしょうか。
佐平:モーゲンソー『国際政治』から引用する。
この論のなかに見られる要因はその徹底した不確実性ということである。しかもこの不確実性は、国内政治および国際政治の分野におけるあらゆるレベルの理論的分析と予言に特有のものである。
佐平:これは前に引用したな。
福太郎:ええ。政治学に付きまとう不確実性についてですね。
佐平:さらに引用する。
後から振り返ってみると、単純な真理として立ち現れてくるものは、前もって見通しのつかなかったものや不確実な直観によってのみ断定されたものなのである。
佐平:政治では前もって先のことを予測できないが、後から見ると真理が立ち現れてくるという場合が多い。
福太郎:そうですね。
佐平:前もって見通しはつかない。見通しがついたとしてもそれは不確実な直観に基づいて判断されたものなんだ。
福太郎:ええ。
佐平:もちろん政治学でも事実と論理に基づいて判断する。しかしそれだけですべての人がひとつの同じ判断に到達するというわけにはいかない。最終的に直感とか洞察が必要とされる余地は残されるというわけだ。次の引用もある。
我々に残された方法は直感でありそれは経験によって確かめられるかもしれないし、確かめられないかもしれないのである。
福太郎:直感は洞察と同義ですね。
佐平:ああ。以前別記事で、洞察について述べている。リンクを貼っておく。洞察と主観
福太郎:政治学は直感や洞察が埋めるべき余地があるんですね。物理学は全て事実と論理にもとづくと思いますが。
佐平:そうだな。しかしアインシュタインの次の言葉があるぞ。
わたしにあるのはラバのような頑固さだけだ。いやそれだけでない。嗅覚もだ。
福太郎:嗅覚か。
佐平:そうだ。直感だ。物理学でも直感は必要なんだ。
福太郎:でも物理学は数学と実験だけで成立しますよね。
佐平:最終的には数学と実験に還元される。でも仮説を形成する時は直感が必要だとされている。最終的には数学と実験によって地に足がつかないといけない。しかしそこに至る過程で優れた物理学者は直感を用いるという。
福太郎:そうですか。
佐平:結局政治学の法則は大雑把に正しいが自然科学のような確実性はないということになる。これで今回の話は終わりだ。

■このページを良いと思った方、
↓を押してください。

■上部に掲載の画像は山下清。