改憲か護憲か

X国が軍備を仮に放棄したら、X国が他国に侵略する可能性は防げるかもしれない。しかしY国がX国に侵攻する可能性は逆に高まる。X国はY国に軍事的に抵抗できないからだ。Y国に侵攻されて「戦争反対!!」と声をあげてY国が退却してくれればいいが、そうはならない。Z国がX国を助けてくれればY国はX国に侵攻しないかもしれない。しかしその場合、X国は自分で自分を守れない国になってしまう。

日本はかなり高度な軍事力を持っている。しかし軍事力を完全に放棄すべきと思っている人も一部確かにいる。 正解は軍国主義でも軍事放棄でもない。正解は中庸にあり正しい武力である。

戦争反対の声をあげることが無意味だとは決して思っていない。非常に意味のあることだ。私自身今回の武力侵攻には断固として反対だ。声をあげたい。国際世論の力は大きい。ただ世論だけだと限界がある。侵略者に国際世論を考慮するような良心のかけらでもあれば効果的だが、ヒトラーのように国際世論を一切考慮しない侵略者には効果がない。

ウィリアムジェイムズの『宗教的経験の諸相』に次の言葉がある。

この世には真の悪の要素があって、それは無視されることも回避されることもできないで、むしろ魂の英雄的な資性によって正々堂々と取り組んで克服され、苦難によって和らげ浄められなければならないものである。この見方とは反対に、超楽観主義的形式の哲学は、私たちは無視するという方法で悪を扱えばいいと考える。さいわいにも健康と環境とに恵まれて、自分自身はたいした災悪に苦しむこともないといった人間が、その個人的経験の外にある広い世界に存在している悪に対しても眼を閉じてしまうとしたら、そういう人間は全く災悪とは無縁でいられるであろうし、また健全な心を拠り所に人生を幸福に渡ってゆけるかも知れない。しかし私たちはそのような試みが必然的に不安定なものであることを知った。のみならず、このような試みは個人にかかわるだけであって、個人の外にある災悪はこの哲学によっては贖われも救われもしないで残されるのである。

我々が認識しなくてはならないのはこの世の中にはヒトラーのように国際世論を一切考慮しない悪が存在し得るということだ。軍事放棄をすれば世界が平和になると単純に考える人々は、ジェイムズの言葉によると「無視するという方法で悪を扱えばいいと考える」人たちである。そうではなく悪は「魂の英雄的な資性によって正々堂々と取り組んで克服される」べきである。個人レベルでは力の放棄という理想は達成できるかも知れないが、「個人の外にある災悪はこの哲学によっては贖われも救われもしない」のである。

「悪」については別の記事で論じている。悪の構造。悪は確かに存在する。

もっとも軍事放棄を主張する人たちにも一定の言い分があるかもしれない。同じく『宗教的経験の諸相』から引用する。

侵略ということが全く行われず、ただ同情と公正だけが支配するような社会を想像に描くことはもちろん可能である。現に真の友人だけの小さな共同体はすべてそのような社会を実現しているのである。抽象的に考えてそのような社会を大規模なものにしてみれば、それが理想の社会であろう。そこではすべての善きことがなんら摩擦なく実現されるだろうからである。そのような至福千年の社会になら、理想主義者は完全に適応するだろう。彼の穏やかな訴え方は仲間に対して効果をあらわすであろうし、彼の無抵抗につけこむような人間はひとりもいないだろう。従って理想主義者は、抽象的に考えると強者よりもいっそう高い型の人間である。なぜならそのような社会が具体的に可能であるかはともかく、彼はおよそ考えられる最高の社会に適応しているからである。

たしかに私たちは親しい友人との間では理想的な共同体を形成できる。互いに思いやり互いに相手の善意につけ込んだりしない社会だ。それを世界全体に押し広めれば理想的な世界が実現する。それは分からなくもない。しかしジェイムズは次のように続ける。

強者が出現すればそのような社会はたちまち悪化するだろう。

強者とは相手の善意につけ込み軍事力で支配しようとする者である。ヒトラーのような悪もその一例だ。軍事放棄をした世界にそのような悪がひとりでも現れれば、その悪に誰も対抗できない。悪による世界支配が完成する。

我々の身近な友人同士の理想的な共同体を世界に押し広めるというのはよく分かる。それは儒教の理想と一致する。しかしだからと言って軍事力を放棄してしまえば軍事力を悪用する悪に対抗できない。儒教は軍事についてはあまり語らないが、『論語』において孔子は軍事力も必要であると認めている。「理想的な共同体を世界に押し広める」のは理解するが、同時に自衛の最後の拠り所としての軍事力は保持すべきなのである。

第二次世界大戦の時の日本が軍国主義化したのは「力への欲求」がその原因のひとつであった。そして敗戦後は、もう「力への欲求」は放棄していいじゃないかと考えるようになった。その点に関してモーゲンソーの『国際政治』から引用する。

地球上の1,2の国民を力への欲求から解放しても、他の国民のそれがそのままならば、それは無益かつ自己破壊的ですらある。力への欲求が世界中のいたるところで捨て去られないならば、力への欲求から逃れた人は他の人の力の犠牲になるだけである。

仮に一部の人たちが言うように日本が力への欲求から解放され軍事力を放棄したとしても、他の国が力への欲求から解放されていなければそれは無益なだけならまだしも自己破壊的になりえる。「力への欲求から逃れた人は他の人の力の犠牲になるだけである」とある通り、軍事力を放棄した国は他の国から侵略されやすくなるだけだ。

中公新書の『戦後日本の安全保障』という本に次の記載がある。

相手国の軍事力が増大したにもかかわらずもし日本の防衛力が変わらないとすると、その分のギャップつまり「力の空白」が生じ、地域の不安定化をもたらすことになる。

日本が国力に見合った適度な軍事力を持てばよいが、本当に軍事力を持たなかったとすれば、「力の空白」が生じて、平和を実現するどころか逆に東アジアの軍事的不安定化をもたらしてしまう。日本が本当に非武装であればそしてもし日本が守られるべきならば、日本は他の国が守ってあげるべき対象になってしまう。国際社会のお荷物になり東アジアという地域の不安定要因になる。

このようなことが望ましいか可能かは分からないが、全ての国が力への欲求から解放されなければならないのであれば、すべての国が同時に解放されなければならない。もしくは200年後に世界政府が現れ、世界の軍事力を独占し、各国は軍事力を持たないということも可能かもしれない。しかしそれは全ての国が同時に行わなくてはならない。ひとつの国だけ軍事力を放棄することは平和につながらない。逆に戦争を誘発する。「力への欲求が世界中のいたるところで捨て去られないならば、力への欲求から逃れた人は他の人の力の犠牲になるだけである。」とある通りだ。

現段階では世界政府の実現は不可能である。それが可能となるためには世界共同体が必要である。現在同じ価値観を共有する共同体の一番大きい単位は国民国家である。世界全体には同じ価値観は共有されていない。その実現のためにも東洋思想と西洋思想が正しく合成されることは意味があると思っている。

第二次世界大戦で日本は「大東亜共栄圏」という理想を掲げて戦争をした。日本人がその理想をどれだけ信じていたかは不明だ。大義のために戦争が起きるのは事実だ。だからと言って大義を完全に捨ててしまうのが正解とも言えない。 何が正しい大義なのかを模索するのが正しい努力だと思う。東洋思想と西洋思想の正しい合成もその答えのひとつかもしれない。

護憲派の人は9条さえ守れば日本は戦争のリスクから逃れられると思っているかもしれないが、実際は9条のために戦争のリスクは高まる。リスクを見ないふりして幻想の安心を獲るべきではない。リスクを無視するのではなく、リスクを直視し、リスクを制御し、リスクを最小化することが必要だ。

日本が憲法改正し軍隊の保持を明記したら、日本は戦争ができる国になってしまうという懸念がある。 「そこは政治を信頼して」という人もいる。確かに信頼も大切だが、それでは不十分という指摘はよく分かる。 当然我々国民が政治家の動きを注意深く見守る必要がある。 軍国主義に走りそうな懸念のある政治家は選挙で落とさなければならない。 政治家にとって選挙で落とされるのは非常に痛いのだから有効なチェック機能になる。 本気で平和を望むなら平和憲法を維持するより政治を正しくチェックすることにエネルギーを注ぐべきだ。

逆に言うと9条を改正し自衛権を明記したからと言って戦争のリスクがゼロになるわけではない。護憲派の人々が平和を求める気持ちはそれ自体は非常に尊い。その気持ちは政治家が軍国主義に走らないかを正しくチェックすることに注ぐべきだ。リスクの制御は常に継続的に行わなくてはならない。自衛権の明記とともに侵略戦争の否定を憲法に掲げるのもいいと思う。

マスコミも政治家の言動は正しくチェックすべきだ。 第二次世界大戦でマスコミが国に迎合してしまったのは確かに間違いだった。 だからと言って政治に単純に対決姿勢をとるのが正しいかというとそうではないはずだ。 政治に迎合するよりはましかもしれない。 しかしマスコミは政治を是々非々で正しく評価しないといけない。 政治に功績があれば正しくプラスに評価し、間違いがあればマイナスに評価し、追及する。 そうしないと国民は何を根拠にして政治を評価し選挙で投票していいか分からない。 現在の政治に対決するだけの報道の在り方では国民に正しい判断材料を提供できていない気がする。 政治に対して通信簿をつけてやるくらいのつもりで報道しなくてはいけない。 そうしないと民主主義は機能しない。 マスコミも政治に迎合するのではなく単に対決するのではなく、政治を正しく評価するという中庸が大切だと思う。

民主党政権の時は外交がボロボロだったのに、安部政権では外交が立ち直った。安部さんの功績は我々にはあまりピンと来てない気がする。きちんと報道されてないのが一因ではないか。

第二次世界大戦は悲惨な戦争だった。それを反省するのは非常に尊いことだ。 改憲派も護憲派も本気でその立場をとっている人たちは愛国者だと私は思っている。 しかし護憲派はその動機は正しくてもその判断は正しくない。

マスコミが政治を正しく政治を評価し、国民が選挙で政治を選ぶ。そして政治が軍国主義でもなく軍事放棄でもない正しい中庸を得る。民主主義が機能する。これが正しい在り方だと思っている。 何を当たり前のことを、という人もいるかもしれないが、正しさを追求すると結局シンプルな当たり前に行き着く場合が確かにある。


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