劉備と孔明の人材観2

3.馬謖について

 続いては馬謖である。

 裴注の『襄陽記』によると、南蛮征伐の前に孔明は馬謖に意見を求めている。

「諸葛亮が南中を征討したとき、馬謖は数十里の彼方まで送っていった。諸葛亮が、「何年にもわたってともに作戦を練ったが、今もう一度良策を授けてほしい。」 と言うと、馬謖は答えて言った。「南中は要害と遠隔地を頼みとして長い間服従しませんでした。今日これを打ち破ったとしても、明日になればまた反旗を翻すでしょう。 現在公は国力を傾けて北伐に向かわれ強力な逆賊にかかりきりになられるご予定。彼らが国内の軍事的空白を知れば、その反逆もまた早いでしょう。 もしも残党をことごとく滅ぼして、後の患いを除こうとすれば、仁者の気持ちからはずれるうえに、簡単に片を付けるのは不可能です。 そもそも用兵の道は、心を攻めるのを上策とし、城を攻めるのを下策とし、心を屈服させる戦いを上策とし、武器による戦いを下策とします。 願わくは、公には彼らの心を屈服させられるように」(『襄陽記』)

 馬謖は蜀の最終目的が、魏の討伐であると確認している。そして今回の南征はその後顧の憂いをなくすためであると述べている。 そしてそのためには城を攻めるのではなく、南蛮の人々の心を屈服させるべきであると指摘している。

 上記の発言は南征の蜀の戦略全体の中での位置づけ、南蛮の特殊事情、南征の具体的方法などを的確に述べている。 非常に本質をついており、上記が馬謖の発言だったとするならば、決して並大抵の人物ではなかったと推測される。

 孔明は、自分の名誉を第一に考える豪傑たちより、国の利益を重んじ、本質を理解する馬謖を重んじたというのは容易に想像できる。

 孔明は何が本当の意味で国のためになるかという本質を常に考えていたと思う。 「何年にもわたってともに作戦を練ったが」という発言も併せて考えると、馬謖はその相談相手のひとりだったようである。 そして上記の馬謖の献策から推測すると、馬謖の日頃の発言はそれに十分に応えていたようである。

 別記事で述べるが、武官では趙雲がそれにあたると個人的には考える。趙雲の行動も常に本質をついていたと思う。 趙雲は馬謖のような「相談相手」ではなく、行動を起こす際の相方のような役割であったと思う。

 さらに馬謖伝から引用する。

 「先主(劉備)は臨終に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は、言葉が実質以上に先行するから、 重要な仕事をさせてはいけない。君はそれを察知しておれよ」と言ったが、 諸葛亮はそれでも反対の判断をし、馬謖を参軍にとりたて、いつも招いて談論を交わし、 昼から夜に及んだ。」(『蜀書』馬謖伝)

 

 上記は有名な劉備の言葉である。 そして孔明がそれに背いて馬謖を登用し魏に大敗したのは述べるまでもない。

 劉備は言葉巧みな馬謖を信じず、行動の人である豪傑たちを信じた。 多くの人は劉備の慧眼をほめ、孔明は人を見る目がないと言う。 そしてさらに孔明自身も馬謖のような書生の要素をかなりの部分持っていたのだ、とも言う。 それは当たっている。しかしそれが当たっているのは半分だけである。 なぜなら劉備の前半生がなかなかうまくいかなかったのは豪傑たちばかりを登用し、 馬謖のような人材を無視したからである。 そして劉備の後半生の飛躍は馬謖のような人物である孔明を重用したのが原因だからである。

4.劉備と孔明の価値観

 劉備と孔明の価値観観は非常に対照的だと考える。

 孔明は何が国のために大切かという本質に着目し合理的にその本質を追求し続けた。 それに対して劉備は合理的な思考は行わず、人物の人間性に着目し、合理性を超越した偉大な徳により、 蜀の求心力となった。

 劉備の呉遠征も国の基本理念を無視して、関羽との人間的つながりを重視した劉備の価値観の表れである。

 我々は歴史の結果を知っているので劉備と孔明が協力し合ったというのは当たり前と考えてしまうが、 これほど価値観の違う2人が、水魚の交わりを持ったというのはよく考えるとやや不思議ですらある。

 ただ対照的な二人であるからこそ、力を合わせれば非常に大きな力を発揮しえたと言えよう。

5.結論

 そしてある人物の価値観はその人材観に色濃く反映する。

 馬謖は劉備の「その言その実に過ぐ」という指摘通り、処刑された。  魏延は孔明が見抜いていた通り、自分の名誉と立場を国の利益以上に重視するという欠点のために反逆者とされ討たれた。

 以上から言えるのは、劉備の人材観も孔明の人材観もそれぞれ真理の一面を照らしていたのである。

 それに対し劉備も孔明もどちらも信頼を寄せた人物がいる。それが趙雲である。 人生の最期を全うするのが難しい乱世において、劉備と孔明の片方からしか信頼されなかった馬謖と魏延がその人生の終わりを良くできなかったのに対し、 劉備と孔明の両方から信頼された趙雲が人生を正しく終え得たのは、非常に示唆深い。

 勇敢にして慎重な趙雲は、劉備から信頼される側面と孔明から信頼される側面と双方を兼ね備えていたのであり、 要は劉備と孔明の人材観は両方の長所が併せ持たれた時に初めて完全な人材観となったのである。

 事業においても同様である。劉備も孔明もひとりでは大きな事業を成し遂げ得ず、二人が手を組んだ時に初めて大業を成し遂げたのである。

 劉備の偉大な徳と孔明の正確な知を併せ持った人物がいる。曹操である。曹操はスケールの大きさと正確さを併せ持っていた。

 劉備と孔明は互いに協力し合ってはじめて曹操に並びえたのである。 ただ逆を言えば劉備と孔明が組めば曹操と同等以上の活躍ができたというわけである。

 実際曹操在命中においても、孔明が出蘆してからは三国志の主役は孔明になったと俗に言われるのは当たっていると思う。

別記事で趙雲について論じる。

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