劉備と孔明の関係は「水魚の交わり」と呼ばれている。そのため二人は同じ価値観を 共有していたと考えられる傾向にある。確かにそういう側面も大きかったに違いないが、 二人の価値観は意外と対照的である。
それが最もよく表れるのは人材観であり、魏延と馬謖をめぐる二人の評価である。 魏延は劉備に信頼されて孔明に疎んじられ、馬謖は孔明に評価され劉備に信じられな かった。そして劉備・孔明両方から信頼された人物として趙雲が挙げられる。 この記事では魏延と馬謖を中心に論じたい。趙雲は別記事で述べる。
「先主(劉備)は漢中王になると、政庁を成都に移したので漢川のおさえとして重要な将軍を用いる必要があった。 人々の評判では必ず張飛が任用されるだろうといわれ、張飛自身も内心そうだろうと自認していた。 先主は意外にも魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍に任命し、 漢中太守を兼務させたので、一軍みな驚いた。先主は群臣を大ぜい集め、魏延に質問して、 「今君に重任をゆだねるのだが、君は任に当たってどう考えているのか」というと、 魏延は、「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきたならば、 大王のためにこれを防ぐ所存。副将率いる十万の軍勢が来るならば、 大王のためにこれを呑みこむ所存です。」と答えた。先主はよきかなと称し、 人々はみなその言葉を見事だと思った。」(『蜀書』魏延伝)
劉備が存命のときの『蜀書』の記述である。劉備の下で魏延がのびのびと活躍してい る様子が表れている。
劉備は羅漢中の『三国志演義』の影響でお人好しな人物だと思われがちであるが、 実際はそうではなかった。関羽、張飛、趙雲のような人の下風に立たぬ豪傑たちをかわいがり、 彼らが劉備のために命を投げ出すような猛獣使いのような側面があり、巨大な人物であった。
関羽を例にとっても、関羽は英雄曹操から非常に丁重にもてなされたにもかかわらず、劉備に忠誠を尽くした。 それは関羽の義を重んじる人柄によるのではあるが、同時に劉備の偉大な徳が原因でもある。 劉備は部下の人柄に常に着目し、人間性を信頼して武将たちとの間に強力なきずなを作った。 劉備の徳が劉備軍の求心力となっている。
荒くれものの魏延も劉備の下ではつらつと仕事をしている様子がわかる。
しかし劉備の死後、状況は変わる。
「魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、いつも一万の兵を要請して、 諸葛亮と違う道をとり潼関で落ち合って、韓信の故事にならいたいと願ったが、 諸葛亮は制止して許さなかった。魏延はつねに諸葛亮を臆病だと思い、 自分の才能が充分発揮できないのを歎きかつ恨みに思っていた。」(『蜀書』魏延伝)
魏延は孔明に不満を抱き、孔明が魏延に手を焼いている様子が伝わってくる。 孔明は部将との個人的なつながりよりも、蜀全体の利益を最優先するため、 魏延のように自分優先の勝手な行動をとる人物は扱いに困ったのである。 国全体の利益よりも自分の名誉を重んじる魏延を孔明は信頼しなかったはずである。
孔明には劉備のような徳はなかったのかもしれない。魏延を心服させられなかったのである。 孔明の死後は楊儀や姜維ではもはや魏延に抑えがきかず、魏延は糸の切れた凧のようになってしまった。
続きは劉備と孔明の人材観2をご覧ください。
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