私は若い時卑しい人間であった2

身分説の利点

 次に身分説の利点を考察する。身分説の利点は子罕第九の七との整合がとれる点である。

 書き下し文
 牢曰く、子云まう、吾試いられず故に芸あり、と。

 金谷訳
 牢が言った、
 「先生は『私は世に用いられなかったので芸がある』と言われた」

 確かに身分説の方が整合する。 しかし次のように考えられないだろうか。 弟子たちは孔子に間違ってでも孔子自身を「卑しい」と言ってほしくはなかった。 しかし孔子は弟子を指導するためならそのような発言を平気で行う人であった。 別の場面では子貢を励ますため「私は顔回に及ばない」とありえない発言をしている。 孔子は弟子を育てるのを第一にするという姿勢が一貫しているのである。

 弟子たちは困った。そこで彼らは「吾少きとき賎し」の「賎し」を「身分が低い」と 強引に解釈したのである。論語では孔子の言葉は「子曰はく」で始まるが、  子罕第九の七だけ「牢曰く、子云まう」となっており「牢曰く」で始まっているのである。 なんとなくおかしいと思わないだろうか。 私は弟子たちがわざとこの節を偽作し混入させたのではないかと思う。 うがちすぎだろうか。朱子も子罕第九の七を子罕第九の六に編入するように言った。 それは朱子も弟子たちと同じく孔子が「卑しい人間であった」とは言ってほしくなかった証拠 になると私は思う。


■チベット仏教声明
『地獄の王マハーカラへの声明』

■上部の画像はチベット絵画

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■作成日:2016/4/21


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