子罕第九の六に以下のような記述がある。
書き下し文
吾れ少くして賎し。故に鄙事に多能なり。
君子多ならんや。多ならざるなり。
金谷訳
わたしは若い時には身分が低かった、だからつまらないことがいろいろできるのだ。
君子はいろいろするものだろうか。いろいろとはしないものだ。
私訳
わたしは若い時には卑しい人間であった。だからつまらない芸に多能なのだ。
君子は多能だろうか。多能ではないのだ。
「少くして賎し」を伝統的解釈は「若い時身分が低かった」と解する。 これを「身分説」とする。私が知る限り論語の訳は全て身分説をとる。
対して私は「少くして賎し」を「若い時卑しい人間であった」と解する。 孔子は非常に謙虚な人であったため、自分自身を「卑しい」と述べたが、 卑しい人間ではなかったにせよ平凡な人間であった可能性は十分考えられる。 これを「平凡説」と呼ぶ。
単に文辞上の解釈ではどちらもありうる解釈である。以下それぞれの利点を考察する。
先に平凡説の利点を述べる。 第一の利点として平凡説の方が論旨がはっきりする。
書き下し文では「君子=多ならず」「賎し=多能」として「君子」と「賎し」が対比されている。
「君子=多ならず」 ⇔ 「賎し=多能」
という構図である。
身分説をとると「君子」と「身分の低い人」が対比され
「君子=多ならず」 ⇔ 「身分の低い人=多能」
という構図になり、君子でかつ身分の低い人はどうなるのか、という疑問が残る。
一方平凡説では「君子」と「平凡な人」が対比され
「君子=多ならず」 ⇔ 「平凡な人=多能」
という構図になり明瞭な対比となり論旨がはっきりする。
君子と平凡な人の対比は論語の通奏低音ですらある。
第二の利点は、孔子が若い時に平凡な人物であったというのは 「平凡な人間が偉大な徳を備えた人物になれる」という儒教の根本思想に一致する点である。 これが平凡説の思想上の最大の利点である。
続きは私は若い時卑しい人間であった2をご覧ください。
■チベット仏教声明
『ツェチュ讃歌』
■上部の画像はチベット絵画
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