仕事の価値 人材の価値

問題解決の価値、仕事の価値はどうやって測るのか。すぐに思いつくのが問題の難易度だろう。問題が難しければ難しいほどその問題の解決は価値がある。その通りである。しかし同じ難易度の問題でもその解決の価値は違いが生じえる。その問題の解決の有用度が影響するからだ。普通は仕事の価値を測るのに難易度を連想しやすいかもしれない。難易度を連想するのは分かりやすい。だからここではあえて有用度に着目してみる。

例えばコンピュータシステムを開発して納入している会社があったとする。ある人は請け負う仕事をもらってくる営業的な仕事をしている。もうひとりは開発するプログラマーを新規で雇い入れる人事の仕事をしている。ある規模の仕事をもらってくる仕事とある人数のプログラマーを補充する仕事が同じ難易度だとする。同じ難易度だから同じ価値なのかというとそうとは限らない。

例えばその会社でプログラマーの人員は十分だが、仕事が足りず人員が余っているとする。この場合、仕事を持ってくるのが価値ある仕事で、人員を補充する仕事は価値が低い。逆に仕事がたくさんあるが、人員が足りない場合は、さらに仕事を持ってきてもあまり意味がない。人員の補充が必要である。

要はその会社のボトルネックを解決するのが有用な解決である。難易度だけでなく有用性が仕事の価値を測る基準になるのが分かるだろう。次の式が成立する。

仕事の価値 = 難易度 × 有用性

難易度が高くても有用度が低ければその仕事の価値は非常に小さくなる。逆に有用度はあっても難易度が非常に低ければやはり仕事の価値は下がるに違いない。下の図をご覧ください。

有用であっても易しい仕事というものがある。我々が日々行っている「普通の仕事」である。私も普通の仕事をしている。易しい仕事で有用ではない仕事があるとする。それは「無意味な仕事」である。そんな仕事をする人はほとんどいないだろう。世の中には難易度は高いが有用ではない仕事もある。非常に難易度は高いが「重箱の隅」をつつくような仕事をする人が少数いる。「価値ある仕事」は難易度が高く、かつ有用である仕事である。

難易度が高くかつ、ボトルネックを解決する仕事は非常に有用な仕事になる。システム開発会社の例は分かりやすかったが、これが国全体や世界全体になると何が有用か、何がボトルネックかが、とたんに分かりづらくなる。

私が書いた論文を3つ載せる。

神は存在するのか
凡人による天才論
独我論は成立しない

『神は存在するのか』では宗教と科学の理論的不整合の解決を試みた。宗教と科学の理論的不整合の解決は非常に重要であり、時代のボトルネックだと言っていい。私の論文で十分な解決ができたとは思わない。しかしもし遠い将来解決できるとすれば、時代のボトルネックを直撃したことになり、難易度だけではなく有用性という意味で重要な解決になる。同じ難易度の他の問題よりはるかに重要である。

『凡人による天才論』では天才とは何かについて心理学的に論じた。「天才とは何か」も非常に重要な問題である。しかし時代のボトルネックではない。であるから『神は存在するのか』に比べると有用性では若干劣る。解決は出来たつもりである。しかしもともとクレッチマーの『天才の心理学』である程度の解決はすでに行われていた。

『独我論は成立しない』では「独我論」という哲学上の問題について論じた。「独我論」は専門の哲学者あいだでは何百年も未解決の問題である。しかし専門外の人からしたらどうでもいい問題であり、解決したところで世界にとってあまりプラスになるとは思えない。私の論文でこの問題が解決したわけではないが、解決したとしても同じ難易度の他の問題よりはるかに有用性が劣る。

楽天koboで電子書籍を書いた。『趙雲は実は史実でも重要な武将だった!』という本だ。三国志にでてくる趙雲という武将は「小説では大活躍するが史実では地味な武将」とされている。その定説を覆した内容である。定説を覆したという自信はある。三国志のファンでありその中でも趙雲のファンである私からしたら超重要な内容なのだが、興味ない人からしたらどうでもいい内容である。興味のない三国志という分野の、名前も知らない趙雲という武将の評価などどうでもいいはずだ。私が熱く語れば語るほど興味のない人は冷めてしまうだろう。残念ながらこの本は世間一般的には有用性が劣るのである。

むろん有用性で劣るからと言って解決策を提示する必要ないかと言うとそうではない。少しでもプラスになるなら当然提示すべきである。その積み重ねが大きい結果になるからである。

あるひとが「マイナス思考の人は1回で100点を取ろうとする。プラス思考の人は1点を100回取ろうとする。」と言っていた。私は1回で100点を目指そうとする傾向があるので、「1点を100回とる」という言葉はコペルニクス的転回で衝撃的だった。

それはともかく、現代のボトルネックは沢山あると思う。そのひとつが宗教と科学の理論的不整合の解決であり、東西思想の合成である。もちろん環境問題や人口問題、AIなど他にもたくさんある。私が知らないだけで他にも沢山あるに違いない。ボトルネックの直撃が有用性という観点から重要である。

ひとりの人間はひとり分の仕事しかできないと思われがちだがそうではない。時代のボトルネックを直撃すれば、ひとりで大きい仕事ができる。坂本龍馬は薩長同盟を仲介することで時代のボトルネックを直撃した。当時のすべての日本人の行く末に直接的な影響を与え、すべての日本人のその後の仕事を意味と価値があるものにし、ひとりで何千万人分の仕事をした。もし日本の近代化がアジアの近代化に何かしら影響を与えたのであれば、坂本龍馬は間接的にはもっと多くの人に影響を与えている。何十億人もの人々に影響を与えたと言えば言い過ぎだろうか。

上記の表に戻れば、同じ難易度でも、有用性の高い「価値ある仕事」は有用性の低い「重箱の隅」に比べて、場合によっては何千万倍もの価値を持つ可能性がある。坂本龍馬のケースがその典型である。

ではどのような人が時代のボトルネックを直撃するのか。「仕事論」から「人材論」に移る。

Edward Bulwer-Lyttonという19世紀のイギリス人がいる。「ペンは剣よりも強し」という言葉で有名な人。次の言葉がある。

原文
Talent does what it can.
Genius does what it must.

日本語訳
才人は自分ができることをする。
天才は自分がすべきことをする。

天才は時代を見渡して時代に最も必要なことを行う。「自分がすべきことをする」のである。だから必ず時代のボトルネックを直撃する。才人は自分が一番得意なことをする。「自分ができることをする」のである。「自分にできること」がたまたま時代に必要であれば、重要な仕事をする。しかし「自分にできること」が時代に必要でないならば重箱の隅をつつく。

さきほどのシステム開発会社の例で言うと人員が足りないときに人員を補充し、仕事が足りないときに仕事を持ってくるのが「自分がすべきことをする」のであり、仕事が余っているのに、仕事を持ってくるのが得意だからと言って、さらに仕事を持ってくるのが「自分ができることをする」のである。

『論語』に次の言葉がある。

書下し文
君子、器ならず。

現代語訳
君子は器ものではない。

器は要は食器とかコップである。料理を盛るためとか飲み物を飲むためとか用途が決まっている。人材であればできることが決まっている。能力が限定されている。「自分ができることをする」のである。それに対して君子は器ものではない。用途が決まっておらず、時代に合わせて柔軟にその仕事を行える。時代を見渡して時代に最も必要なことを行うことができる。「自分がすべきことをする」のである。中国思想には「無形の思想」がある。君子は一定の形を持たず無形であり、時代に合わせて仕事を柔軟に行える。

これは思想系や社会系の人に当てはまる。芸術系の人には当てはまらない。芸術は社会に迎合すべきではなく、自分の個性を重視すべきだからだ。時代に合わせるべきではない。

では単に汎用的な人、オールラウンダーがいいのかと言うとそうとは限らない。下の図をご覧ください。

「汎用キャラ」は左上である。確かに柔軟にいろいろな仕事に対応できるが易しい問題しか解決できない。会社では必ず重宝されるが、大きい仕事はしない。いっぽう能力が固定されていてかつ易しい仕事しかできない人もいる。これは「能力不足」である。左下。会社で採用されるが必ずしも重宝されない。必要がなくなれば切られる可能性がある。

能力が固定されているが難易度が高い問題を解決できる人がいる。「スペシャリスト」だ。右下。ひとつの事しかできないが、専門分野に関しては他の追随を許さない。会社に必要であればもの凄く重宝される。社長より高給取りだったりする。会社の需要と合わなければ解雇される。需要があるほかの会社に転職するだろう。スペシャリストは大きい仕事をする可能性がある。ひとつの事しかできないが、時代の要請に合えば時代を動かす可能性がある。スペシャリストが時代を動かした場合、難易度の高い問題を解決したのはそのスペシャリストの実力である。しかしその仕事が時代の要請に合ったのは幸運の結果である。

中国の漢の時代に韓信という人がいた。漢の初代皇帝劉邦に仕えた軍事の天才である。戦乱の時代では重宝されその仕事は天下を動かした。しかし平和の時代になると不必要になり、逆に戦争に強いので危険視され、処刑された。「狡兎死して走狗烹らる」「野兎がいなくなると猟犬は不必要になり殺される」という言葉を残して死んだ。彼はスペシャリストの典型である。彼が軍事的に成功したのは彼の実力である。しかし彼の軍事的才能が重宝されたのは、たまたま時代に適合しただけで幸運の結果である。その証拠に、幸運が去った後、彼は没落した。

スペシャリストは興味深い。時代に合わないと重要な仕事をしても歴史に埋もれてしまう。何百年かしてから「こんな先駆者が実はいました」と発掘されたりする。重要な分野だが人気のない分野で難易度の高い仕事をする人も優れたスペシャリストである。

右上が「実力者」である。時代に合わせて柔軟に対応しながら、時代にとって必要で難易度の高い仕事をする。そんな奴いるのかと言われそうだが、確かにいる。現代日本では少ないが、海外には現代でもいる。日本での典型は坂本龍馬。しかし「実力者」といえど簡単に重要な価値ある仕事ができるわけではない。竜馬も薩長同盟のとき、薩摩の西郷が長州との会合をすっぽかしたり、再度の会合の時、嵐で大幅に到着が遅れたりと、失敗もありつつどうにかこうにか長い間試行錯誤して最終的になんとかひとつの仕事に成功したのであって、楽々とたくさんの仕事に成功したわけではない。海外の優れた経営者も苦難の時代はありそれを乗り越えたうえでの成功なのである。

時代に合わせて柔軟に思考するためには、色んなしがらみからフリーになる必要がある。茂木健一郎氏の『書く習慣で脳は本気になる』から引用する。

龍馬の人生にはさまざまな解釈があり、いろいろな角度から見ることができます。その中で僕が注目したのは、藩に頼らない生き方です。文久二年、脱藩を決意した龍馬は、「吉野に桜を見に行く」と言い残し、和霊神社で水杯を交わし、脱藩の誓いを立てました。当時の脱藩は大罪で、見つかれば死罪を免れず、親類縁者にもその咎が及んだと聞きます。
死を覚悟してまで藩のしがらみを振り切り、ひとりの人間として生きようとしたのは、「藩の理論で動いていたら、新しい時代には必要な働きができない」と考えてのことでしょう。脱藩したことが龍馬の礎となり、その後の活躍につながったことはたしかです。脱藩することで、龍馬は偶有性を自分の血肉にすることができたのです。
現代における「脱藩」とは、何を意味するでしょうか。すでに藩もなく、身分制度もありません。龍馬が生きた時代と比べると、僕たちははるかに大きな自由を手にしています。現代の日本に生きるわれわれが脱しなければならないものは、組織という枠組みそのものです。
もちろん、脱藩をキーワードに掲げているからといって、「すぐに会社を辞めなさい」と言っているわけではありません。僕自身もソニーコンピュータサイエンス研究所という組織に関係していますし、周りにいるたくさんの人も組織に所属しながら働いています。ここで言いたいのは組織に関係していても、「組織の理論で自分の行動をきめるようになってはならない」ということです。

龍馬の時代と現代は時代が違う。現象だけを見れば現代には「脱藩」は存在しない。しかし「脱藩」の本質を見れば、それは「しがらみからフリーになる」ということなので現代にも存在すると分かる。

思想でも大学で思想を学ぶと「中国思想」「インド思想」「イスラム思想」「現代英米思想」「現代フランス思想」「近代ドイツ思想」「古代ギリシャ哲学」など分野で分けられてそれに縛られる。学派間の対立などがある。そういう対立にとらわれてしまう。ひどい場合には学閥の対立もある。関東と関西の学会の対立など、「その対立になんの本質があるのか?」と私なんかは思う。そのようなしがらみから離れ「脱藩」すれば、努力しなくとも自然と時代のボトルネックが見えてくる。もともと「実力者」ではなくて、私のように「スペシャリスト」であっても、「脱藩」すれば自然と「実力者」に少し近くなる。

坂本龍馬は何の肩書もなく一個人で大きな仕事をした。組織で出世していようといまいと、組織に所属していようといまいと、しがらみから離れ時代のボトルネックを直撃できれば、上の表の「実力者」に分類される人間だと言える。

■2023年4月2日追記。

「能力不足」「汎用キャラ」「スペシャリスト」「実力者」と単純に4つに分けたが、もちろん実際は複雑である。実際は数学のXY空間のようになっている。下図をご覧ください。

同じ「能力不足」でもXさんのように確かに能力不足の人もいるが、Yさんのように頑張る人もいる。私は思想以外は何もできないので「スペシャリスト」だろうけど、思想の中ではいろいろこなすのでスペシャリストのなかでは若干柔軟性もあるのかもしれない。「汎用キャラ」でもZさんのように「実力者」に近い人も当然いる。現実は複雑で単純に4つには分類できない。


■上部の画像はガウディ

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作成日:2023/3/16