古人におもねらずの可否

吉田松陰の『講孟箚記』の冒頭に次の言葉がある。

現代語訳
古典を読むときにもっとも気を付けるべきは、古典を書いた聖人や賢者におもねらないことである。少しでもおもねる所があれば、道理が明らかにならない。学んでも役に立たず、害がある。

書下し文
経書を読むの第一義は聖賢におもねらぬこと要なり。もし少しでもおもねる所あれば、道明らかならず、学ぶとも益なくして害あり。

どういう意味だろうか。古人におもねると十分に自得しないのに古人の言葉に従ってしまう。それでは道理が自分の中で明らかにならない。学んでも自分の役に立たず、逆に生兵法になって害になるという意味か。

『言志晩録』二百二十に次の言葉がある。

現代語訳
世の中においては、すべて謙虚にして譲る心がけが必要である。しかし志は師に対しても譲らなくていい。さらに古人に対しても譲らなくていい。

書下し文
人事百般、すべて遜譲なるを要す。ただ志は則ち師に譲らずして可なり。また古人に譲らずして可なり。

思想を学ぶものが必ず一度はぶち当たる問題がここにある。古人を信奉するか、古人といえど批判的に受け入れるかの違いだ。

私個人はというと「古人にもおもねらず」タイプの人間である。私は真理に対しては徹底的に謙虚で真面目だ。しかし人に対しては必ずしも謙虚とは限らない。日常生活ではある程度謙虚だが思想に関しては他人に謙虚とは限らない。古人に対してすら信奉するわけではない。

真理は無形だ。自然は無形だ。正しい解決策を示す。しかし人間は有形だ。古人は無形の思想を体現したが、その残した言葉や事績は有形だ。人間は所詮有形なのである。

有形無形に関してはすでに述べた。君子器ならず無形の思想

例えば大学時代、西洋思想を学んでいたが、すごい教授がいた。西洋古今の哲学がその精神に全て蓄積されているかのようで恐怖感すら覚えた。

彼は真理をある意味体現しているため私は彼を尊敬した。しかし信奉はしなかった。彼もところどころ間違えたり不十分なところがあった。

私のスタンスは
・自分の意見より真理が大事。
・教授の意見より真理が大事。
・古人の言葉より真理が大事。
である。思想に関しては真理や自然を師としても人を必ずしも師としない。

では他人にもそのような姿勢を勧めるかというと勧めない。

大学の教授たちは私が教授の説を批判しても怒らなかった。教授自身の説より真理を大切にするという心の広さ、学問に対する誠実は確かにあった。しかし私が古人を批判した時は全く違った。私を徹底的に潰しにかかってきた。そして私は退学した。一向に反省していないから現在でもスタンスは変わっていない。

「古人にもおもねらず」を実践するにはこの点を考慮しないといけない。もちろん思想をそもそも志さない人は古人を批判しても大して問題ないかもしれない。しかし思想を志す者が古人を批判すると、真面目な学者ほど徹底的に潰しにかかってくる。

古人を批判するのであればその批判は的を射ていないといけない。しかし的を射ていない場合は馬鹿にされて終わるが、的を射ていると当たっていれば当たっているほど学者は怒ってくる。

それに耐える覚悟がない限り「古人にもおもねらず」を実践してはいけない。吉田松陰は激烈な信念の持ち主だった。弾圧に耐える覚悟は当然のようにあった。それは彼の生涯が証明している。

「古人にもおもねらず」というのは覚悟がないとやってはいけないのだ。

ただ古人を批判することを是としない人たちにも正しい言い分がある。古人を批判することは一見古人を貶めようとしているように見えるからだ。

私はこのサイトで孟子や荀子を批判したが、彼らを貶めようとするつもりは一切ない。彼らは当然私より偉大であるし、深く尊敬している。

しかし私の孟子批判を読んだ人で孟子の偉大さを知る人は、私が孟子を貶めようとしていると思うかもしれない。孟子の偉大さを知らない人は「孟子って大したことないんだ。」と思うかもしれない。それは違う。

孟子の言葉は絵画に喩えると名画である。それに対して私は平凡な画家だ。そして孟子が描いた名画には確かに傷がある。傷があるのは事実だから、私が「傷がある」と指摘するのは正しい。だからと言って彼の描いた名画の価値が失われるわけではない。

私の絵にも傷は当然あるのだが、話を分かりやすくするために、仮に私の絵には傷がないと仮定しよう。傷が無いとは言っても平凡な絵が名画になるわけではない。傷のある名画のほうが、傷の無い平凡な絵より圧倒的に価値がある。傷があってもダヴィンチの名画は何十億円という価値がある。傷がなくても平凡な絵は高い値段では売れない。

以前twitterに書き込んだ内容を書いておく。以下引用。

数学とか自然科学とかでは批判する側が正しく批判される側が劣っているかもしれない。 しかし思想ではそうとは限らない。 批判される人のほうが偉い場合がかなりの頻度である。 朱子やヘーゲルが後世の思想家に批判されるのは彼らが偉大だからである。

若い頃剣道をしていた。テレビで剣道の名人と剣道の初心者が試合をしていた。 名人がその雰囲気と構えで初心者を圧倒すると初心者はそれに耐えきれず、 あせってあがきはじめやたらと竹刀を振り回す。

解説をしているアナウンサーは剣道を知らないらしく「おお!攻めています!攻めています!」 と実況していた。私は「あせってるだけだよ」と思わず独り言を言った。 名人は初心者の中心線をとらえ隙が無い。 しかし剣道を知らない人はそこが分からない。 たんに竹刀を振り回しているほうが優勢と思ってしまう。

思想も同じだ。ある思想家が批判されると思想を知らない人は批判している側が偉いと思ってしまう。 批判している側が偉い場合も確かにある。しかし同じくらいの確率で批判されている側が偉い場合がある。 思想を理解する人は「これはあがいてるだけだな」とすぐわかるが、門外漢はそこが分からない。

以上引用。もちろん私が孟子を批判する時に何もあがいて批判しているわけではない。しかし批判している私より批判されている孟子のほうが圧倒的に偉大なのだ。孟子を読む人は理解してもらえると思う。


■上部の画像はガウディ

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作成日:2022/3/3