孔子と金

3.手段としての金

 孔子においては「道」が目的であり、「金」は手段である。

 ローマの格言に次の言葉がある。

金銭は賢者においては良き召使いであるが、
愚者においては冷酷な主人である

 孔子においては金は手段であるから「召使」なのであり、「道」を実現するための手段であるから、「良き」召使なのである。 愚者においては金銭は目的となるため「主人」なのであり、そういう人は寒々とした人生を送るため「冷酷な」主人となる。

 孔子は明らかに賢者のパターンに属する。

『大学』に次の言葉がある。

書下し文 
仁者は財を以って身を発し、不仁者は身を以って財を発す

現代語訳 
仁者は財産を使って自分自身を高めるが、不仁者は自分自身を犠牲にして財産を得る

『大学』においても仁者は財産を手段とし、不仁者は財産を目的としているのが分かる。 孔子は当然に仁者に属するのである。

4.罕に利をいう

 『論語』子罕篇に次の言葉がある。

原文 子罕言利興命興仁
徂徠の解釈 子、罕に利を言う。命と興にし仁と興にす。
現代語訳 孔子は利益を語る場合、天命や仁に関連して話された。

 徂徠の解釈に従えば、孔子は利益を語る場合、天命や仁を実現する手段となる場合に限って話された、という解釈になる。 天命や仁を実現するに役立つ場合のみ利益を重視したのである。 冒頭に引用した、「富にして求むべくんば」の解釈と相発明し、この徂徠の解釈は非常に魅力的な解釈である。 私も以前はこの徂徠の解釈を採っていた。

5.結論

 いずれにしても『論語』からうかがえる孔子の姿勢は、一貫して道を志す姿勢であり、金銭はその手段として有効な場合のみ重視されたのである。

 『中庸』に次の言葉がある。

書下し文 
道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。

現代語訳 
道は短い間でも離れないものである。離れるものは道ではないのである。

 『論語』里仁第四に次の言葉がある。

書下し文 
君子は食を終うるの間にも仁に違うこと無し。造次にも必ず是においてし、顛沛にも必ず是においてす。

現代語訳 
君子は食事をとる間も仁から離れない。急変のときもきっとそこにおり、ひっくり返った時もきっとそこにいる。

 上記の引用と同じ内容かは必ずしも明らかではないが、孔子の金銭観も常に道を目的としているのである。孔子は常に道から離れない。 金を欲するのも道のためであり、金に執着しないのも道のためである。

「道」の実現のためならば、コンビニの店員でもしよう、という孔子の言葉に、「道」への深い情熱が感じられる。


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