孔子と金1

1.富にして求むべくんば

『論語』述而第七に次の言葉がある。

書下し 
子曰く、富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾れ亦た之を為さん。もし求むべからずんば、吾が好むところに従わん。

現代語訳 
富というものが追及すべきであるならば、コンビニの店員でも私はつとめよう。もし追及する必要がないのであれば、自分の好きな生活に向かおう。

 この節は、数種類の翻訳を参照したが、訳が一定しない。上記の翻訳は私訳である。

 「執鞭の士」は金谷治訳では「市場の監督」と訳されている。分かりづらいので現代的に「コンビニの店員」と訳した。

 以下解説する。

 孔子の目的は「道」の実現である。道の実現のために金が必要になる場合があるかというと、それは確かにある。 「富にして求むべくんば」というのは「道の実現のために富を求めるべきであるならば」という意味である。 「道の実現のため金が必要であるならばコンビニの店員でもつとめよう」というのが前半の趣旨である。

 それでは孔子はコンビニの店員をしたいかというとむろんしたくないのであるから、 「富を求める必要がないのであれば、自分の本来の行いたい生活をしよう」というのが後半の趣旨となる。

2.賢なるかな回や

 孔子が金に執着していなかったのは、『論語』全体から明らかである。

 『論語』述而篇に次の言葉がある。

書下し文 
子曰く、疏食を飯い水を飲み肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦その中にあり。

現代語訳 
孔子が仰った。粗末な食事を食べ、水を飲み、ひじを曲げて枕とする。道を求める本当の楽しみはそのような中にもある。

書下し文 
子曰く、賢なるかな回や。一簟の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪えず、回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や

現代語訳 
孔子が仰った。えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲み物で、せまい路地くらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、 回は自分の楽しみを改めようとしない。えらいものだね、回は。

 孔子は金に執着していない。金の楽しみより深い「道」の楽しみがあるからである。 私のような平凡な人間が道を志せば「道」は重荷になるわけだが、孔子や顔回のような人物が道を志せば、大金を積んでも得られない楽しみを「道」から得るのである。

 孔子が金を欲する場合があるとすれば、それは「道」を実現するのに必要な場合のみである。

 金に執着しないのは、孔子が道を楽しむからであり、金を欲するのも道を行うためなのである。

続きは孔子と金2をご覧ください。


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