大事と小事

以前twitterで書いた文章を内容を付け足して書いておく。

以下の内容をツイートしている人がいた。

日々小さな変化に気づけるようになれ。 僕は僅かでも異変を感じたら「?」ってなって追求する癖があるんだけどこういうのを放置する人は成長しない。僅かな変化を拾える人はそこから何かを発見して軌道修正したり将来のチャンスのためにストックできたりする。ボーッとしてるのか考えてるかの差です。

このツイートに関連して『荀子』彊国篇から引用する。

小さな改善を積み上げていくのは、年ごとに改善するより季節ごとに改善するほうが効果が大きく、季節ごとに改善するより毎月改善するほうが効果が大きく、毎月改善するより毎日改善するほうが効果が大きい。多くの人々は通常小事をおろそかにしがちだ。大事件が起きてからはじめてどうしようかと対策を考えて努力する。そんなやりかたでは常に小事を大切にする人には決して勝てない。なぜか。小事件が起こるのは日常茶飯事であるから、それを経験する回数も多く、改善の積み重ねも大きいが、大事件が起きるのはめったにないことであるから、その経験の回数も少なく、改善の積み重ねも少ないからである。だから毎日改善を積み上げていく者は王者となり、季節ごとに改善を積み上げていく者は覇者となり、失敗しても改善せず欠陥をとりつくろうだけでは危険であり、でたらめをしていると滅んでしまう。だから王者は日々慎重に物事にあたり、覇者は季節ごとに慎重に物事にあたり、何とか平穏を維持している国では危険が迫ってから初めてどうしようかと心配し、亡国では最後の滅亡の時になってはじめて後悔する。

以上『荀子』からの引用。殷の紂王や秦の趙高などは日々自分が滅亡する原因となる行いを続け、滅亡の時になってはじめて自分の行いが正しくなかったと気づく。滅亡しないはずがない。成功する人は大事と小事の優先順位は理解しながらも、小事も大切にしそこから学ぶ。

例えばパソコンのソフトで作業しているとき、ソフト自分の予想と違う動きをしたとしよう。これも「?」という出来事だ。そんなときも「どうしてそんな動きになったかな?」と原因を納得するまで追究する。「?」を「!」に変える。どうでもいい小事だが、そんな小事は毎日何回も起きる。そのたびに改善を積み重ねると何年もたつと大きな改善になる。

机とか大きめのものを買うと自分でねじなどを使って組み立てなくてはいけない場合がある。そのときも例えばねじが思ったようにしまらない時がある。組み立て解説書の記述をきちんと解読できない場合がある。そういうのも「?」だ。そんなときも「なんでかな?」と原因を追究して「?」を「!」に変える。

探し物をしていて探し物が見つからないときは、自分の日頃の物の整理の仕方や物を探すやり方がうまくできているか反省する。車の運転で少しヒヤッとした時も必ず原因を突き止める。仕事でお客さんがこっちの予想と違う答えをしたときも原因を考える。相手が人間だと原因不明で終わることもあるが。こういう小事の改善を積み重ねると何年もたつと大きな差になる。これは儒教で言う格物致知という修行法なのである。

『葉隠』に次の言葉がある。

直茂公の御壁書に「大事の思案は軽くすべし」とあり、それに対する石田一鼎の注釈には「小事の思案は重くすべし」とある。

直茂公とは佐賀の名将鍋島直茂だ。ちなみに私の故郷佐賀市本庄町のご近所さんでもある。「大事の思案は軽くすべし」というのは大事は誰だって慎重にするから「軽くすべし」でちょうどいいという意味だろう。「小事の思案は重くすべし」は荀子と同じで日頃の小事を改善しておくことが重要という意味だ。小事の改善を積み重ねることがいざという時の大事のための備えが自然にできることになる。

佐藤一斎『言志四録』のうちの『言志録』二十六に次の言葉がある。

書下し文
真に大志ある者は、よく小物を勤め、真に遠慮ある者は細事を忽せにせず。

現代語訳
真に大志を抱く者は、小さいことでもよく勤め、真に遠大な考えを抱く者は、些細なこともおろそかにしない。

これも細事の改善の積み重ねが何年もたつと大きな違いを生むという趣旨だろう。大志を抱く人は細事をおろそかにしない。

もちろん小事は本来どうでもいい内容だ。大事が重要だという本来の優先順位は忘れちゃいけないのは言うまでもない。大人はその辺の優先順位を間違えないが、子供に教えるときは本来の優先順位を忘れてしまうかもしれない。そうなると逆にとんでもない害になる。一応注意が必要だ。

同じく『言志録』の三十二に次の言葉がある。

書下し文
厳しくその志を立てて以てこれを求めれば、薪を運び水を運ぶと言えども、またこれ学のあるところなり。況や書を読み理を究るをや。志の立たざれば終日読書に従事するも、またこれ閑事のみ。故に学を為すは志を立つるより尚きはなし。

現代語訳
しっかりと志を立てて、その実現に努力すれば、たきぎを運び水を運ぶことにすら学ぶところがある。まして古典を読み道理を窮めるのはなおさらである。志がなければ一日古典を読んでもただの暇つぶしに終わる。学問を為すのは志を立てるほど尊いことはない。

志を立てればたきぎを運ぶことの中にも学ぶことがあるという。私の例で言うとパソコンのソフトウェアの使い方、ねじの締め方からも学ぶところがあるということになる。

ここで少し話が変わるが、引用で佐藤一斎は「志を立てる」というのを重視している。志を立てれば色んなことから学ぶことができる。志が立たなければ古典を読んでも意味がない。

「志を立てる」とは「自分自身を成長させたい」「世の中を良くしたい」という目的や理想を持つことである。それがあってはじめて知識や経験が血肉化される。まず目的と理想を持つ。それの実現のためにどうしたらいいかを真剣に考え、書物や経験から教えやヒントを学んでいく。すると自分の志が核になって知識や思考や経験がつながり総合化され血肉化される。これが中国的修行法である格物致知だ。

同じく『言志録』の六に次の言葉がある。

書下し文
学は立志より要なるは無し。しかして立志もこれを強うるに非ず。ただ本心の好むところに従うのみ。

現代語訳
学問は志を立てるより重要なことはない。志を立てるのは他人から強制すべきものではない。本心の好むところに従うまでだ。

やはり志を立てるのが学問の出発点だ。

『論語』為政篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を越えず。

現代語訳
孔子が仰った。私は十五で学問を志し、三十にして独立し、四十にして惑うことがなくなり、五十にして天命を知り、六十にして人の言葉が素直に聞かれ、七十にして心の欲するところに従っても道をはずれないようになった。

有名な言葉だが、「十五にして学に志す」が最初にきている。これは「志」が重要であり、「志」が一番初めにこなくてはいけないからである。最初に「志」を立てないとそもそも有効な学問にならないからだ。

E.H.カーの『危機の二十年』という二十世紀政治学の古典がある。次の言葉がある。

目的は思考の先行条件である。

この本は理想主義と現実主義に関する古典である。ここで「目的」とは理想を指し、「思考」とは現実分析を指す。 人間の政治や学問の営みは先に「目的」が掲げられることからはじまり、そのためにどうしたらいいかという「思考」がその後に続くという。現実分析の前に理想が必ず掲げられる。

これは儒教の考えと一致する。儒教でも「志を立てる」ことが先にくる。「目的」が先だ。その後、書物や経験から現実を学ぶという「格物致知」=「思考」が続く。やはり理想が掲げられるのが先で現実分析がその後に続くのである。

E.H.カーはいくつも例を挙げる。例えば天然痘など病気を治したいという「目的」が先に掲げられて、そのためにどうしたらいいかという「思考」がそれに続き、その結果医学が発達する。頑丈な橋をつくりたいという「目的」が先に掲げられて、そのための「思考」が続き、工学が発達する。

現存する最古の幾何学書には「丸い果実の計測法」「ガチョウや牛が食べる飼料の算定法」など具体的問題を解決するための実用的な法則が定められているという。

「丸い果実の円周を測る」「ガチョウが食べる飼料の量を量る」という「目的」が先にあって、そのための「思考」が続き、幾何学という学問が発展するのである。やはり「目的は思考の先行条件」なのだ。

『危機の二十年』という本は政治学の本である。世界は第一次世界大戦という悲劇を経験して、世界平和という「目的」を切実に希求するようになった。その実現のための「思考」として政治学も生まれたとカーは述べる。

カーは次のように述べる。

思考のための思考は蓄財のための蓄財をする守銭奴と同様に、異常であり実りのないものである。

最初に「目的」が掲げられない「思考のための思考」は意味がないと言う。『言志録』で「志がなければ一日古典を読んでもただの暇つぶしに終わる。」とあったが、同様だ。「志」という「目的」がないと読書をしてもそれは「知識のための知識」であり、実りがないのである。守銭奴と同じだ。

孫崎享という元外務官僚の『日本の情報と外交』という本に次の言葉がある。

なぜ日本の情報機関が弱いかを考えてみたい。国家の組織で対外活動をするのは軍事と外交がある。情報は軍事と外交の場で行動を起こすことを前提とする。要はこの部門で日本がどこまで独自の外交と独自の軍事を展開する意思があるかにかかる。独自の軍事政策、外交政策を追及すれば独自の情報が必要となる。日本の軍事政策と外交政策が米国依存なら独自の情報機関は不要である。
国際化が進む中で「我が国はこう生きていく」という鮮明な意志を有する国のみが強力な情報機関を築く。だからこそ日本を除くほとんどの国が、守るべきものがあると判断して強固な情報機関を育てている。

著者は日本の情報機関を強化すべきと述べる。その通りだと思う。しかしそのためには独自の外交を展開する意思がそもそも必要であると言う。やはりカーの言う通り「目的が思考の先行条件」なのである。目的が根本だ。目的があってはじめて思考や情報が活きた意味を持ってくる。

また話が少し変わる。志の深さはその人の悩みの深さに比例する。

悩みが深すぎるとその人の人生を崩壊させてしまう。深い悩みは確かに時に残酷である。しかしその人の精神が深い悩みに耐えられるなら、そしてその人がその悩みと戦うなら、その悩みは「志」になりえる。

苦しみの深さは問題解決のための「動機の深さ」であり、苦しみの深さは苦しみに耐える「精神の強さ」であり、苦しみの深さは解決すべき「問題の大きさ」である。

深い動機と精神の強さがあれば、志を実現するうえで困難があっても最終的には屈しないだろう。解決すべき問題が大きければ、最終的になす仕事も大きい仕事になるだろう。苦しみは恐らく天が人に与えている。

『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
逆境のうちに居らば、周身皆鍼箴薬石にして、節を砥ぎ行を磨きてしかも覚らず。 順境のうちに処らば、満前尽く兵刃戈矛にして、膏を鎔し骨を靡してしかも知らず。

現代語訳
逆境にあるときは、身の回りの全てが針灸や薬となり、節操を砥ぎ行いを磨いているが本人はそれに気づいていない。 順境にあるときは、目の前のすべてが刃や戈であり、自分の肉を溶かし骨を削っているのだが本人は知らずにいる。

深い苦しみを得て、もしその苦しみに耐え戦う気持ちがあるならば、本人は一切気づいていないが、その苦しみは大きい仕事をするための準備になる。そしてその解決のために常に学ぶようにしていれば、やはり本人は気づいていないが身の回りのこと全てがその人のための薬になる。

深い苦しみを持ちそれと戦う人は、必死になってその苦しみの原因を特定し、徹底的にそれを解決する方策を考え、同じ問題を探求した先人の書物を紙に穴が開くほど一字一句読み込み、何百回失敗してもあきらめず試行錯誤を繰り返す。

客観的に見ると本人を磨くうえでそれ以上のことは恐らくないにちがいない。しかし主観的には本人は「なぜ皆は順調に人生を進んでいるのに自分だけこんな無駄な回り道をしなくてはならないのか。」と思う。かなり以前の記事だが、『もののけ姫』の解説で主人公アシタカを例に同じ内容を解説している。

もののけ姫 解釈

E.H.カーの『危機の二十年』から引用する。

苦悩は時に本人の意思を強め、その知性を研ぎ澄ます。

苦悩はその人の意思を強めることでその人が仕事を行うための精神的強さを与え、知性を研ぎ澄ますことでその人が問題を解決するための手段を与える。知性がないと問題を解決できないからである。

『三国志』からも例を挙げる。曹操は官渡の戦いで袁紹に勝利した。読みの早い曹操はこれで天下統一はなったと確信しただろう。そして彼は油断してしまう。張松を軽視し、司馬懿を強引に出仕させ、油断から黄蓋の偽降を信じた。張松は曹操から離れ劉備に心を寄せ、司馬懿は恨みに思いゆっくりと簒奪の準備を始め、黄蓋により赤壁で曹操は敗れた。

「順境にあるときは、目の前のすべてが刃や戈であり、自分の肉を溶かし骨を削っているのだが本人は知らずにいる。」というのはこの時の曹操に当てはまっている。

同時期劉備は失意のうちにあった。曹操の天下統一が迫っているのに劉備は一文無しでくすぶっている。劉備は深刻に悩んだ。そして自分の人生がうまくいかなかった理由を徹底的に考えた。それは劉備がそれまで智者を軽視していたからである。劉備はそれに気づいた。そして智者の孔明を三顧の礼をもって丁重に迎えた。これが劉備のその後の飛躍につながった。

「逆境にあるときは、身の回りの全てが針灸や薬となり、節操を砥ぎ行いを磨いているが本人はそれに気づいていない。」というのはこの時の劉備に当てはまっている。

「志」のない学習は「知識のための知識」で実りがないと言った。日本の中学生や高校生が行っている受験勉強も多くの場合「志」を立てずに単に「勉強のための勉強」をしている。受験勉強が全く意味がないとは思わないが、しかし「なぜ勉強をしなくてはいけないのか?」と多くの学生が持つ疑問は正当な疑問だと思う。

「志」がないと勉強しても知識は身につかない。知識が血肉化しない。必要なのは「志を立てる」ことだ。孔子のような偉大な志は誰にでも立てられるものではないから、自分の身の丈に合った「志」を立てる必要がある。

一番いいのはキャリア教育だ。今後自分がどのような大学の学部に進みたいか、どのような仕事につくのかを徹底的に考える。これでまず「志」を立てて「目的」を立てることができる。するとそのために現在何を勉強したらいいかという主体的な「思考」が始まる。知識は血肉化され総合化される。総合学習だ。

総合学習は単に総合的な知識を教えても駄目だ。例えば冤罪は法律の知識や科学の知識、道徳の問題など総合的な知識だが、それを教えても総合的な知識の詰込みになるだけだ。主体的な学習にはならない。

将来どの仕事につくかは全ての学生が真剣に悩む問題だから、キャリア教育こそが正しい「志」を培う教育になるはずだ。受験勉強で忙しくなる前の中学1年と高校1年のときに2回、自分の進路を見つめる必要はあると思う。これもかなり以前の記事だが総合学習について考察した記事がある。

総合学習とキャリア教育


■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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