呪いと力

 たたら場を襲撃したもののけ姫を、アシタカがたたら場の外へ運ぶシーンで興味深い場面がある。 ひとつはアシタカがゴンザの剣を片手でねじ曲げるシーンであり、 もう一つは10人がかりで開けなければならない門をアシタカが一人で開けてしまうシーンである。 アシタカが超人的な力を得ているのがわかる。

 おそらくそれはアシタカが呪いによって力を獲得したと私は推測する。 呪いとは極めて痛切な悩みを指す。そして呪いは時に呪いを持つものに力を与える。 しかし誰にでも力を与えるのではない。呪いと正面から向きあう人間にだけ力を与えるのだ。

アラビアの格言に次の言葉がある。アラビア語は読めないので英語訳で引用する。

Remember, when a wound is tired of crying, it will start to sing.
覚えておけ。心の傷はその者が泣き疲れたころに歌い始めるのだ。

人は痛切な悩みを持つと最初は嘆くだけで精一杯であるが、しかし最終的に呪いと対峙し 解決に努力する者は、しばらくたつとなぜかその呪いから力を得る場合がある。

 本当はこれは無責任な発言かもしれない。呪いを得てそれを力にできず、 人生を台無しにする人のほうが圧倒的に多いと私は知っているからだ。

 呪い(=痛切な悩み)と向き合う方法はおそらくいくつかある。 思想的に解決する方法、宗教的エネルギーに転化する方法、芸術により昇華する方法、医学的に治癒する方法、社会変革による方法などである。 他に方法があるかは私は知らない。

 石原慎太郎氏が16才の時に描いた自画像を掲載する。

 その絵から彼が若い時に鬱屈した暗い情念を持っていたと分かる。 恐らく彼は芸術を通してその情念と対峙してその情念をプラスの力に換えたのではないか、と私は推測する。  彼はおそらくアシタカと同じように呪いを得た人物であり、 アシタカと同じようにその呪いを克服した人物ではないかと推測するのだ。 石原氏のその呪いの正体は何だったのかは興味深いところではある。 単純な好奇心から興味深いと言うのではない。 アシタカの受けた呪いが時代の本質と関係があったように、 石原氏の暗い情念も現代日本の本質と関係があるような気がするからである。

 ちなみに呪いを受けた本人はその呪いが時代と関係があるとは意識していない場合が多い。 アシタカも最初は呪いと時代の関係を知らなかったはずである。 多くの痛切な悩みを持つ人々も、自分の悩みと時代の関係を意識しない場合が多いのである。 自分の得た呪いの正体を探り解決を模索するのは、 確かに他人の助けをたくさん得る必要はあるが、 究極的にはアシタカが行ったようにつらく厳しい一人旅となる。 他人は助けてはくれても代わりになってはくれないからだ。

もしアシタカが乙事主のように、タタリに完全に支配されたらどうだろう。 その場合彼はもう自力では立ち上がれない。 滅びるのを待つばかりである。

アシタカが呪いを受けなかったらどうだろう。 その場合彼は立ち上がろうと努力する必要はない。 なぜなら健康な彼はすでに二本足でしっかりと立っているからである。

アシタカは呪いを受けたが、完全には呪いに支配されなかった。 基本的には健康だが、部分的に呪いに冒されたのである。

このような場合は呪いを受けたものはその呪いを克服する可能性がある。 自力で立ち上がる可能性がある。 もちろん非常に低い可能性である。 ひとつでも船体に穴が開いた船は、船全体が徐々に沈没していくように、 ほとんどの人はたったひとつの呪いが原因で人生を台無しにする。 しかし非常に低い確率でアシタカのように呪いを克服する可能性がある。

それには呪いが必要である。 呪いがあるから彼は尋常ではない努力を迫られるのである。

そしてもう一方で逆に健康さも必要である。 なぜなら呪いを解くには、アシタカがそうしたように、たくさんの情報を集め、 知識を吸収し、自分の頭で考え、自分の心で洞察し、試行錯誤を繰り返す必要があるからだ。 乙事主のように完全に呪いに支配されてしまったら、その作業がもうできないのである。

アシタカが呪いを得たのが重要だとこの記事の冒頭で述べたが、 実は呪いと健康さの両方が必要だったのである。 どちらが欠けてもアシタカは時代精神にはなれなかったのである。


■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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