本当の権力者は地位を持たない

権力者とは何か。それは「他人を動かす人」である。「他人を動かす」といっても色々な方法がある。暴力で脅して人を動かす。命令で強制して他人を動かす。利益で誘って他人を動かす。策略で騙して他人を動かす。論理で説得して他人を動かす。道義で納得させて他人を動かす。美で感動させて他人を動かす。社会の仕組みで他人を動かす。名声による影響力を行使して他人を動かす。人格の力で心服させて他人を動かす。色々な方法がある。どれもある意味権力に違いない。

他人を動かす方法について中国思想に王者と覇者、強者という考え方がある。

王者はその人格と道義で人々を心服させて世の中を導く。覇者は武力を背景にして人々を正しい方に導く。強者は武力で私利私欲を実現する。

子供だった頃の学校の先生たちを思い出してほしい。「この先生は人間として正しいか」を子供は本能的に気づくものだ。道徳的に正しい先生で「この先生に従おう」と思ったことはないだろうか。その先生は生徒を心服させたのだ。王者に近い。

怖い先生もいただろう。私が小さい頃は体罰もあった。怖い先生だが正しい方向に生徒を導く先生はいなかっただろうか。これが覇者に近い。

先生の中には自分の行いを正当化しているが実は私利私欲のために生徒を叱ったり威圧したりする先生もいただろう。これが強者に近い。生徒は子供とはいえ教師が私利私欲のために怒っているのか生徒のために怒っているのか本能的に気づく。

王者と覇者については→王道と覇道を参照ください。

歴史上の人物では覇者はナポレオンやチンギスハンである。彼らは武力を背景に世界を統治した。王者はイエス、ムハンマド、仏陀が典型だ。彼らは地位がなくとも時代を超えて百億もの人々を心服させ従わせている。ムハンマドは最終的に高い地位を得たが、ムハンマドがイスラム教徒から尊敬されているのは彼が高い地位を得たからではない。彼が神の言葉を話したからである。それに対してナポレオンやチンギスハンが影響を与えた人数はもっとはるかに少なく、それも強制によるもので心服によるものではない。心からの支配ではない。

時代を超えて本当の多くの人々を従わせて尊敬されるのはイエスやムハンマド、仏陀のような人格の力である。本当の意味での権力者はナポレオンやチンギスハンではなく彼らなのだ。権力とは何かの本質をつきつめていくとそれは高い地位ではなく、人格の力になる。権力の本質をつきつめると本当の権力者は地位を持たない、となる。

私は何かを見るときそれを思想として見る。樹を見る時も音楽を聴くときも思想として見る。権力志向型の人たちは何を見るにも権力関係の表れとして見るかもしれない。例えば時計を見る時も、思想家は時間を時計によって計量化する事の意味を考えるかもしれない。感性が豊かな人は時計のデザインを見るだろう。権力志向の人は時計を人間が所有するという、時計と人との間の権力関係に注目するかもしれない。

類人猿を見る時も私は彼らの表情や動きから彼らがどのような世界観を持っているかを見る。思想とまでは行かないが、彼らにも世界観はある。フクロテナガザルは野蛮だな、あれもさかのぼれば人間と共通の祖先をもっているなら、我々にもああいう要素は精神の古層にあるのだろうか、とか思う。ゴリラはけっこうどっしりかまえているな、人間に媚びない。オランウータンはぬぺーッとしているが、人間みたいな表情をする時あるなとか。オランウータンは日頃はあまり表情豊かではないかもしれないが、ハプニングがあると表情豊かになったりする。シンガポールだったかどこかの動物園でオランウータンを間近で見ていた時、2階の通路から10代の女性の集団がいたずらをしてペットボトルの大量の水をオランウータンにかけた。するとオランウータンは恨めし気に「おめー何やってんだよ~」みたいな顔をして2階を見上げていた。人間みたいな表情で面白いなと思った。いずれにしても私は類人猿を見る時、彼らの世界観を見ようとする。人間観察も面白いが、動物が種がそもそも違うので非常に面白い。権力志向型の人は類人猿の群れを見る時もボスが他の連中とどのようなコミュニケーションをとって権力を維持しているかに注目するかもしれない。

ノーベル文学賞について私なら本を読んでみてその内容を楽しみたいと思う。権力志向の人はノーベル賞により他の人から尊敬されること他人より優越することに注目するかもしれない。

権力志向の人は色んなものを権力関係として見ていく中で権力の本質についても考えるかもしれない。地位があれば権力を持てる。しかし地位に依存する権力は地位を追われれば消えてしまう。ナポレオンが失脚したように。しかしイエスやムハンマド、仏陀の人格による権力は死して後、人々を支配し続ける。しかもそれは強制によらず、人々の心からの心服による。権力の本質を突き詰めると「本当の権力者は地位を持たない」という言葉が説得力を持つ。

それは違う、と言う人もいるだろう。地位を軽視してはいけない。正しい人が高い地位につかないと国や世界の平和は保てない。「本当の権力者は地位を持たない」という言葉は危険思想だ、と言う人もいるだろう。

その通りである。この言葉は半分当たっていて半分間違えている。当たっている点が納得を生み、間違えている点が刺激を生む。正しい表現に言い換えると次のようになる。「正しく優れた人が高い地位につくことが大切である。しかし本当に偉大な人は地位がなくても偉大である。」となる。正しい言葉はやはり当り前の言葉になる。

再度モンテスキューの言葉を引用する。

この本には今日の諸著作の特徴である警抜な表現は見いだされないであろう。いやしくも事物を一定の広がりにおいて見さえするならば、 警抜さは消え失せてしまうものである。警抜さというのは通常、精神が全く一方にだけ傾倒し、他方はすべて顧みないからこそ生まれるものなのである。

「本当の権力者は地位を持たない」という言葉は部分的に当たっている。偏っている。だから警抜さが生まれる。正しい表現で言いなおすと警抜さは消えてしまうのが分かるだろう。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。