本質を捉えたうえでの中庸

私の思想の根本には中国思想がある。論の展開の表に出ていなくてもその背後に常に中国思想が潜在している。私の論文を読んだ人には分かるが、最終的な結論は当り前の中庸のとれた単純な結論になっている。これは実は儒教的解決である。

例えば『凡人による天才論』では天才とは合理性とインスピレーションの両方を備えた人だという中庸に落ち着いており、『神は存在するのか』においても宗教と科学の中庸をとっている。最終的には非常にシンプルな結論になっている。『論語集注』に次の言葉がある。

現代語訳
守るところが簡略に極みであっても、煩雑な事柄を御し、静かにしていても、多様な動きを御する。最小のことしかしなくても、多くのものを服させることができる。

書下し文
守る所の者至簡にして、能く煩を御し、処る所の者至静にして能く動を制し、務むる所の者至寡にして能く衆を服す。

私の「天才論」や「神は存在するのか」の論文の背景にはこの言葉がある。「守るところが簡略に極みであっても、煩雑な事柄を御す」というわけだ。中庸を執るというシンプルな結論で非常に複雑な現象を説明している。『中庸』に次の言葉がある。

現代語訳
物事の両極を考えあわせて、その中庸を人々に示す。

「神は存在するのか」では極端な宗教家や極端な科学主義者の意見も考慮して本質を捉えてその中庸を結論として提示したつもりである。「天才論」でも精神病的な極端な人と極端なIQ至上主義者の中庸を執ってるつもりだ。

ならば単純ならいいのかと言うとそうではない。一番悪いのは「複雑な世界を単純に捉え単純な回答を出す人」である。賢くない人。次にいいのは「複雑な世界を複雑に捉え複雑な回答を出す人」である。この人は頭がいい。しかしもっともよいのは「複雑な世界を複雑に捉え単純な回答を出す人」である。これが儒教である。「守るところが簡略に極みであっても、煩雑な事柄を御す」という言葉をよく読んでいただきたい。現実の「煩雑」さを認識したうえで解決策の「簡略」さが示されているのが分かるだろう。

重要なのは最初からシンプルな中庸を目指すのは必ずしも良くないという点。複雑な現実を直視しながら本質を捉えていくと結果として中庸に至るというのが私の感覚である。中庸を目指すのではなく、本質を捉えるのを目指すべき。「天才論」「神は存在するのか」を読んでいただければその過程が実感できると思う。

反論として私の文章は必ずしも中庸になっていないという指摘があるかもしれない。例えば「天才論」で合理性とインスピレーションの両方が天才には必要と述べたが、そのインスピレーションとは精神病質と関連があるとなっている。これは明らか常識や中庸に反するというわけだ。そうかもしれない。

しかし中庸が一見中庸に見えないというのは確かにある。時代全体が左に偏っているとき、その時代の人からは中庸は右に偏って見える。時代全体が右に寄っていると、中庸は左に寄っているように見える。

現代は合理性に寄っている時代である。だから精神病質のインスピレーションは抑圧すべき忌まわしいものとしてイメージされる。たしかにほとんど意味のない精神病質の妄想はある。いやそっちの方が多い。しかし精神病質の一部は創造的なインスピレーションになりうるものがある。現代人は天才とは合理性を極めたIQの高い人だと思いがち。だから合理性とインスピレーションの両方をもつという正しい中庸はインスピレーション側に偏っているように見えるかもしれない。しかし読んでいただくと本質を捉えたうえで結果として中庸に落ち着いているのが分かると思う。

「神は存在するのか」も同様である。現代は科学万能主義の時代である。だから宗教に深い意義を見出す私の結論は宗教に偏っていると思われるかもしれない。しかし読んでいただくと宗教と科学の本質を捉えたうえで結果として中庸に落ち着いているのが分かるだろう。

憲法9条の改憲について以前記事を載せた。下記リンク。

改憲か護憲か

私は改憲派である。私は現代日本の一部の人々の主張する武力放棄を信じていない。過去の軍国主義も信じていない。私が信じているのは、軍事力を放棄するのでも、軍事力を万能とするのでもなく、「正しい武力」を持つという中庸である。しかし現代日本の護憲派の人から見ると私は右翼と間違われる。しかし読んでいただくと分かると思うが、本質を捉えたうえでの結果としての中庸に落ち着いているはずだ。

中国思想の難しい点は逆説的だがその分かりやすさにある。思想が難しいのは通常その思想が難解だからだ。ヘーゲルの『精神現象学』が難しいのはそれが難解だからだ。しかし儒教の場合は逆に簡単すぎて、本当は深いことを言っているのに素通りされてしまう点にある。読み飛ばされてしまう。

しかし現代という複雑な世界を複雑に捉え、本質をついた自然で無理のないシンプルな解決策を提示するのは儒教のような気がしている。儒教には他のどの思想にもない長所が確かにある。私の書いた論文がそのささやかな一例になればと思う。

中国思想を中国思想として研究するのもひとつの中国思想への接し方である。しかし中国思想が普遍的であるなら、それを用いて現代的な思想問題を解決するのもひとつの中国思想への接し方である。思想、特に中国思想は本来思想として研究するための思想ではなく、現実に応用するための思想である。うまく中国思想を応用できれば大きな力になる可能性を秘めていると思う。


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作成日:2023/3/14