正史 程昱伝解説

程昱伝は彼の出身地である東郡東阿県で起きた反乱に関する記述から始まる。

黄巾の乱が起きると、県丞の王度は朝廷にそむき、彼らに呼応し、倉庫を焼きはらった。
『魏書』程昱伝

黄巾の乱の時期である。県丞とは県のトップの県令の補佐役である。県丞の王度が黄巾に呼応して反乱を起こす。

県令は城壁をのりこえて逃げ、官吏・県民は老人や幼児を背負って東方の渠丘山に走った。
『魏書』程昱伝

県のトップの県令が逃亡。城壁を飛び越えている点からするとかなり慌てふためいている。当然他の皆はなおさらだろう。パニックになって東の山へと逃げていく。

程昱は人をやって王度を偵察させると、王度はがら空きの城を得たものの守ることができず、城を出て西方へ五、六里行ったところに駐屯していた。
『魏書』程昱伝

しかし皆が混乱する中、程昱は肝が据わっており冷静で、混乱の中でも敵の状態を偵察させ状況を見極めようとする。

程昱は県内の豪族薛房らに対して言った。「今、王度らは城郭を手に入れながらとどまることができないとなるとその勢力は見当がつく。これは財物をかすめとりたいだけで、堅固なよろい、鋭利な武器をもって攻防しようという志があるのではない。今、どうして、つれだって城に帰ってそれを守らないのか。とにかく城はがんじょうで穀物がたくさんある。今もし引き返して県令を探し当て、協力して固守すれば、王度は必ずや長くはもつまい。攻撃して破ることができる。」薛房らはその通りだと考えた。
『魏書』程昱伝

程昱は反乱軍の王度の行動を注意深く観察する。そして王度らには城を守るほどの兵力はなく、さらに財物をかすめ取るという欲に駆られているだけで、城を占拠し自分の勢力をつくるとか黄巾に合流するなどの大きい志は無いと見破ったのである。そして王度らは大したことないので城に戻るように皆に提案する。

官吏や県民たちはついてくることを承知せず、「賊は西にいる。ただ東があるだけだ。」と言った。
『魏書』程昱伝

しかし官吏や県民たちは王度ら反乱軍が西にいるので東に逃げるしかないと言って、程昱に反対をする。東の山へと逃げていく。

程昱は薛房らに対して「馬鹿な県民どもと事を相談するわけにはいかぬ。」と言い、そこでこっそり数騎をやって東の山上にのぼりをあげさせ、薛房らに望見させ大声でこう言わせた。「賊はもう来ているぞ!」すぐさま山を下りて城に向かった。官民はあわてて走ってその後を追った。
『魏書』程昱伝

程昱は県民たちを説得するのをすぐにあきらめている。そして素早く動ける騎兵をやって、東の山の上に、わざと賊軍と見せかけた、のぼりをあげさせる。そして薛房にそれを指さしながら「賊軍はすでに山の上にいるぞ!」と大声で言わせて、率先して城に戻る。県民たちは東に向かうわけにもいかなくなり、仕方なく城に戻ったのである。

県令を探しあて、かくていっしょに城を守備した。王度らはやってきて城を攻撃したが、落すことができずに去ろうとした。程昱は官民をひきつれ、城門を開いて急ぎ彼らを撃ってでた。王度らは敗走した。東阿はこのおかげで無事に済んだ。
『魏書』程昱伝

いかに程昱の肝が据わっており状況判断が的確かが分かる。①肝が据わっている点と②状況判断が的確である点、この二つが程昱の人生を貫いている。程昱はどんな人かと問われたらこの二つをあげるとだいたいあっている。

ひとつ気になるのが、県民たちを説得するのをあきらめ、ある意味だまして強制的に城に戻させている点である。

『論語』泰伯篇に次の有名な言葉がある。

書下し文 
子曰く、民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。

現代語訳 
孔子が言われた。人民は道に従わすようにする。道を知らせることはできない。

緊急事態であった点もあるが、程昱は県民を道理で説得するのを早々にあきらめ、強引に城に戻させている。「これに由らしむべし。これを知らしむべからず。」の典型のような場面である。

孔子は「これに由らしむべし。これを知らしむべからず。」と言ったため批判されるし、その批判は確かに当たっている。現代にはあまり通用しない言葉である。しかし孔子の時代や程昱の時代では仕方がなかったと言えるだろう。

このように豪胆で判断力のある程昱は当然ながら故郷で有名になっていた。エン州刺史の劉岱は程昱を用いようとしたが、程昱は何度も断っている。

しかし劉岱は困ったときには程昱に相談しており、程昱も相談には乗っていたようである。劉岱が公孫サンと袁紹のどちらと組むべきかと程昱に質問し、程昱は公孫サンは袁紹に敗れるので公孫サンについてはいけないと的確にアドバイスしている。

その後曹操に仕える。

劉岱が黄巾に殺されると、曹操はエン州に出向き程昱を召し寄せた。程昱が行こうとすると、彼の郷里の人が「先と今とではなんと矛盾することか」と言ったが、程昱は笑って取り合わなかった。
『魏書』程昱伝

曹操は恐らく程昱の名声を聞いていたようで、エン州に来た時に程昱に出仕を求めている。程昱は応じた。郷里の人が「先と今とではなんと矛盾することか」と言ったとあるが、これは劉岱に対しては出仕せず、隠者のポリシーを貫いていたのに、曹操に出仕するのは、先と今で矛盾するではないかと茶化したのである。郷里の人から見るとそれまでの程昱は隠者気取りだったのだろう。それなのに曹操に仕えるとは、自分のポリシーはどうなったと言っているのだ。

『論語』里仁篇に次の言葉がある。

書下し文 
仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。

現代語訳 
仁者は仁であるのが自然で心地よいのであり、知者は仁を善いことだと評価する。

仁者は仁であるのが心地よいのである。自然体にしていても仁なのである。凡人が仁者のまねをするとだいたい三時間で息切れする。しかし仁者は仁が心地よいのである。

それに対し知者は自分自身は仁者になれないが、仁こそが天下に太平をもたらすと知っており、仁者を優れた人物だと認め、仁者を助けることで天下に太平をもたらす手助けをしようとする。

程昱は知者である。そして曹操が仁者である。程昱は劉岱は仁徳がないと判断し仕えなかったのに対し、曹操は人徳を備えているとして仕えたのである。曹操を通し天下に太平をもたらそうと程昱は考えたのである。であるから程昱の出処進退は決して矛盾などしていない。「程昱は笑って取り合わなかった。」とあり、その道理の説明をいちいちする気にはならなかったようである。「民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。」という程昱の側面がここでも現れる。

裴松之引注の『魏書』に程昱は若い頃いつも泰山にのぼって両手で太陽を捧げる夢を見たという。もちろん太陽は英雄曹操であり、程昱が曹操を支え天下を取らせると言う意味である。程昱の本名は程立であったが、「日」という文字を加えて程昱に改名したという。本当にそんな夢を見ていたかは知らないが、英雄を補佐して天下に太平をもたらすという志は若い頃から持っていたと考えてよいであろう。その点から考えても、在野の士であったころの程昱と、曹操に出仕した程昱は、その出処進退において一貫し決して矛盾しないのである。

曹操は呂布とエン州をめぐって激闘する。いなごの発生もあり、曹操は非常に苦しい状況になる。そこで袁紹の使者が来る。

袁紹は人をやって曹操に手を結ぼうともちかけ、曹操に家族を移してギョウに住まわせることを望んだ。曹操はエン州を失ったばかりで、兵糧も尽きていたためそれを承知しようとした。
『魏書』程昱伝

呂布に攻め込まれ食料が尽き曹操が一番苦しい時を見計らって、袁紹が人質として曹操の家族をギョウに送るようにと言ってきたのである。曹操は弱気になったのかそれを受け入れようとした。

しかし程昱はそれを断るようにと進言し曹操に取りやめさせている。やはり非常に豪胆な人物だったとわかる。

曹操が袁紹と対決する時の記述が程昱伝にある。

袁紹は黎陽にあって南に渡河しようとしていた。当時程昱は七百の兵をもってケン城を守備していた。曹操はそれを聞くと人をやって程昱に知らせ、兵二千を増援しようとした。
『魏書』程昱伝

袁紹が大軍を率いて黄河を渡ろうとしていた。そして袁紹の大軍は程昱が七百の兵で守る城の近くを通ろうとしていたのである。曹操は急いで程昱の援軍として二千の兵を送ろうとした。

程昱は承知せずに言った。「袁紹は十万の軍勢をかかえ、向かうところ敵なしと思い込んでいます。今、私の兵が少ないのを見れば、必ずや軽く見て押し寄せてくることはないでしょう。もし私の兵を増やせば、通過の際、攻撃せずにはおかないでしょう。攻撃してくれば必ず敵が勝ち、わが勢力は元の兵と援軍両方が無駄に損なうことになります。どうかお疑いくださいますな。」曹操はそれに従った。
『魏書』程昱伝

しかし程昱はそれを断る。兵が少なければ袁紹は気にせず素通りするはずだ。増援をすると逆に袁紹を刺激し袁紹は程昱の城を気にするようになり、攻撃を仕掛けてくるだろう、と読んだのである。曹操は程昱の進言に従う。

袁紹は程昱の兵が少ないと聞くと予期した通り向かわなかった。曹操は賈クに対して言った。「程昱の肝は孟賁、夏育以上だな。」

結果は程昱の言ったとおりになった。曹操は程昱の肝が据わっていることに改めて驚いたようである。

私はいつも思うのだが、知将たちが一見危険な行動に出るのは、それは彼らが豪胆なのか、それとも単に自分の読みに自信があるのか、どちらか分からない時がある。

程昱は勇敢だったから援軍を断って平然としていたのか。それとも絶対袁紹は攻撃してこないという読みに自信があったから平然としていられたのか、どちらか分からないのだ。恐らく程昱の場合は両方だろう。賈クなんかも一見危険な行動をとるが、彼は勇敢と言うより読みに自信があったタイプではないかと思う。

昔テレビである実験をしていた。自動車が用意され、その中に物理学者が乗り込む。そして人工的に雷をつくる機会が設置され、自動車の上に強烈な雷をおとす。物理学を一切知らない人間が車に乗った場合は、恐ろしくて仕方がないだろうが、物理学者は絶対に安全と知っているので、少しも怖がらない。この場合、この物理学者は勇敢だから平然としていられるのだろうか。勇敢と言うより絶対に安全だと言う読みに自信があるから平然としていられるのだろう。

それと同じで『三国志』の登場人物は一見危険な行動をするときがあるが、それは勇敢だからなのか、読みに自信があるからなのか、時々分からなくなる。

程昱の性格は強情で他人と衝突することが多かった。程昱が謀反をたくらんでいると告げ口する者があったが、曹操の下賜や待遇はますます手厚かった。
『魏書』程昱伝

程昱は強情だったため他人から怨まれることも多かったのだろう。謀反を企んでいると讒言をされている。しかし曹操は讒言を一切気にせず、ますます程昱を厚遇した。これが袁紹であれば讒言を聞き入れてしまう可能性があるが、さすがは曹操である。袁紹とは違う本当の英雄であった。その曹操に仕え、天下に太平をもたらす一助になれた程昱の人生もまた素晴らしい人生だったと言えるだろう。

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■上部の画像は韓国の殊眼禅師の書。1940年。

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