孟達 魏諷 劉曄

孟達はご存じの通り、劉璋を裏切って劉備に通じ、関羽の件で劉備の怒りを買いそうになると、 曹丕に降伏し、魏での立場があやうくなると蜀に戻ろうとし、最終的に司馬懿に討たれている。

孟達は立ち振る舞いが見事で、弁舌巧みだったという。

『魏書』明帝紀引注『魏略』から引用する。

孟達が到着しその謁見に進むありさまはゆったりとして優雅であり、才能と弁舌は傑出しており注目しない者はいなかった。
『魏書』明帝紀引注『魏略』

曹丕は孟達が来降したと聞くと人相見の専門家を送って、孟達の人物を判断させている。

『魏書』明帝紀引注『魏略』から引用する。

孟達がやってきたと聞いて、曹丕は大いによろこび、人物を識別する能力のある高官をやって観察させたところ、 帰ってきて「将軍の器です。」と報告し、ある者は「天子を補佐する大臣の器です。」と報告したので、 曹丕は一層孟達を敬うようになった。
『魏書』明帝紀引注『魏略』

そして曹丕が孟達にあてた手紙が残っているが、孟達を伊尹、百里奚、楽毅に例えて、非常な敬愛の気持ちを述べている。

曹丕も人相見の専門家も孟達の表面的な華やかさを高く評価してしまった。しかし孟達には真心や誠実さは無かった。 その場の状況に従うだけで裏切りを重ね自滅した。

孟達が劉備のもとを辞する時の手紙が残っている。 一見巧みで謙遜し誠実そうな文章だが、それは自分の裏切り行為を名文で飾るような内容であり、劉備は激怒したであろう。

『韓非子』説林上に次の言葉がある。

書下し文 
巧詐は拙誠に如かず

現代語訳
巧みな詐りは拙い誠実さに及ばない

『論語』学而篇に次の言葉がある。

書下し文
巧言令色鮮し仁

現代語訳
言葉巧みで、顔色よい人には、徳がある者は少ない

上記の言葉は孟達のためにあるような言葉である。

劉曄はひと目で孟達の軽薄さを見破ったという。 『魏書』劉曄伝から引用する。

孟達の立ち振る舞いが見事であったので、文帝は才能をかって大いに寵愛し、 孟達を新城の太守にとりたて、散騎常侍の官位を与えた。 劉曄は「孟達は一時的な利得にひかれておりますゆえに、才能にたより策を好みますので、 恩寵に感じ道義を思うことができないにちがいありません。新城は呉・蜀と接している地であり、 もし態度を変えることがあれば、国家にとって災難を引き起こすでしょう。」と主張した。
『魏書』劉曄伝

『魏書』劉曄伝引注の『傅子』に次の記載がある。

曹操の時代、魏諷は高い評判をもち、大臣以下みな彼に心を寄せ、付き合った。 そののち孟達が劉備を離れて文帝につくと、論者のうちには楽毅の器量があるとたたえるものが多かった。 劉曄は魏諷・孟達を一見すると、いずれも謀反を起こすに違いないと言った。結局その通りになった。
『魏書』劉曄伝引注『傅子』

曹丕は人物を鑑定する専門家を派遣して孟達の人物を判断させたが、正しい判断を得られなかった。 下手な専門家より真の知者劉曄の判断のほうが正しかったのである。

自然科学や歴史など豊富な知識が前提になる分野では、確かに専門家のほうが正しい判断をする場合がほとんどだが、 人物を鑑定するという直感的な能力が必要な分野では、専門的な訓練を受けた者より、 劉曄のような本質が分かる人物のほうが正しい判断をするのだろう。

先に引用された魏諷についても論じたい。孟達と似たような人物である。

『魏書』武帝紀引注『世語』に次の記載がある。

魏諷は字を子京といい、沛国の人である。民衆を巧みに扇動する才能があり、ギョウの都をゆり動かすほどであった。 鐘ヨウはそのため彼を召し出した。大軍がまだ漢中から帰還しないうちに、魏諷はひそかに徒党を組み、ギョウを襲撃せんと計画した。 曹丕は魏諷を処刑した。
『魏書』武帝紀引注『世語』

魏諷は非常に言葉巧みで人づきあいがうまく、多くの高官たちも彼を評価し付き合ったという。 『魏書』第二十一王衛二劉伝の劉ヨク伝引注『劉ヨク別伝』に劉ヨクが魏諷と親しくしている弟の劉偉を諫める次の記載がある。

私の見るところ、魏諷は徳行を修めずに、もっぱら人集めをつとめとしており、華はあっても実がない。 彼はただ世の中をかき乱し名前を売るだけのやつだ。そなたは慎重に対処して、二度と彼と交際するではないぞ。
『魏書』劉ヨク伝引注『劉ヨク別伝』

魏諷と孟達が非常に似ているのが分かるだろう。「華があっても実がない」「世の中をかき乱し名前を売るだけのやつだ」。 二人に非常に当てはまる論評である。

多くの人々が魏諷と孟達を称賛する中、劉曄はひとめで彼らの軽薄さを見破ったという。劉曄の発言は他の場面でも的確な場合が非常に多い。 真の知者のひとりであろう。

一目みて他人の人柄を見抜く人は確かにいる。現代にもいる。普通は他人を知るにはその言動を見ないと分からないものだが、 一目見てわかる人はうらやましいと思う。長い時間をかけて判断する必要がないのだ。

『晋書』に孔明が孟達に対し権謀術数を使ったという記載があるらしい。 孟達が再度蜀に降るか迷っている時に、わざと魏に孟達の裏切りの情報を流して孟達を追い込んだという。

権謀術数は道徳的に問題がある。私は以前、孔明は根本を備えた「正」の知者で賈クは末節に巧みな「奇」の知者と述べた。孔明は基本的に権謀術数などは使わない正統派の王道を行く知者であり、賈クは権謀術数に巧みな知者だ。

『三国志』の著者陳寿は恐らく孔明に心酔している。だから孔明の名誉のため権謀の事実は書かなかった可能性がある。 『晋書』の記載が史実かどうかは不明だが、個人的にはかなり信憑性がある気がする。 というのも孟達は裏切りを何度も繰り返す道徳的に劣悪な人間で、味方としても決して信頼すべき人間でもなく、敵としても尊敬すべき人間でもない。捨て駒にしても問題のない人物だからだ。

だから孔明が孟達に対し権謀術数を使ったとしても必ずしも孔明は間違えたことをしたことにならない。 権謀を他ならぬ孟達に対して用いたという点で『晋書』の記載はもしかしたら信憑性があるのではないかと思う。

『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
勢利粉華は近づかざる者を潔しとなし、これに近づきてしかも染まざる者を最も潔しとなす。 智械機巧は知らざる者を高しとなし、これを知りてしかも用いざる者を最も高しとなす。

現代語訳
権勢名利や豪奢華美に近づかない人は潔白な人であるが、これに近づいてもその悪に染まらない人はもっとも潔白な人である。権謀術数を知らない人は高尚な人であるが、それを知っても用いない人がもっとも高尚な人である。

『晋書』に従って孔明は孟達に対して権謀術数を用いたとすると孔明は権謀術数を知っていたことになる。しかし孔明は孟達以外には権謀術数を用いなかった。いかに孔明が高潔だったかが分かる。

為政者である以上、他人に騙されないためにある程度権謀術数を知っていないといけない。おそらく孔明は権謀術数を知っていたが用いないようにしていた。陳寿は孔明は臨機応変の奇策は得意ではなかったと評しているが、もしかしたら孔明は権謀にもたけていたが用いないようにしていたのかもしれない。

いずれにしても孔明は権力の中枢にいながらその悪に染まらず、権謀術数を知っていながらそれを用いなかった。 この『菜根譚』の言葉は孔明のためにある言葉のようだ。

同じく『菜根譚』から。

書下し文
軒冕の中に居りては山林の気味なかるべからず。 林泉の下に居りては須らく廊廟の経綸を懐くを要すべし。

現代語訳
高位高官の地位に居る者は山林に隠棲しているような趣がなくてはならない。→でないとただの俗物になってしまう。 林泉に隠居して居る者は天下を経綸する見識を抱くべきである。→でないとただの田舎者になってしまう。

この言葉はあたかも孔明の人生を描写しているかのようである。 孔明は隠棲時代にすでに天下三分の大計を懐いていた。 そして蜀の丞相になっても財産らしい財産はなく、隠棲しているような清らかさを保った。

『菜根譚』の言葉と孔明の人生に儒家と道家の絶妙なバランスを感じないだろうか。

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■上部の画像は韓国の殊眼禅師の書。1940年。

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