曹操~官渡の勝因と赤壁の敗因

曹操は官渡で袁紹に大勝し赤壁で孫権に大敗した。官渡では許攸の投降を信じて大勝し、赤壁では黄蓋の投降を信じて大敗した。なぜ同じ投降を信じた状況で全く別の結果になったか。分析していく。

結論から言う。官渡では曹操は許攸が本当の投降だと確認したうえで信じた。それに対し黄蓋は本当の投降か確認せずに信じてしまった。これが原因だ。

いや、官渡では許攸の投降が本当か確認しなかったはずだという人もいるだろう。しかしよく読んでいただきたい。確認している。『魏書』武帝紀に許攸の投降に関し次の記載がある。

許攸は淳于瓊らの攻撃を曹操に進言した。側近の者はその言葉に疑いを持ったが、荀攸と賈クは曹操に勧めた。

ここで問題なのは荀攸と賈クというふたりの人物である。『魏書』荀攸伝に次の記載がある。

祖父の荀曇は広陵太守であった。荀攸は幼いときに父を失った。荀曇がなくなると、もと下役の張権が荀曇の墓守をしたいと願い出た。荀攸はその時十三歳であったが、これに疑惑を抱き、叔父の荀衢に向かって「この者にはただならぬ様子があります。恐らく何か悪いことをしたのでしょう。」と言った。荀衢ははたと思い当たり、取り調べをするとあんのじょう殺人をおかして逃亡してきたのであった。

荀攸は人の話し方などからその人物の本心を見抜く眼力に非常に優れていた。すでに十三歳のころから鋭い眼力を持っていた。

賈クに関しても同様だ。賈クは逆賊李カクに仕えた。。李カクは董卓以下の人物。董卓のほうが恐怖政治による一定の秩序があった。李カクの時代は完全なカオス。人間関係はどこに行っても大変だが、逆賊李カクに仕えるのは危険極まりない。おとなしくしててもいつ酷い目に遭うか分からない。諫言などしようものならいつ殺されるか分かったものではない。

しかし『魏書』賈ク伝によると賈クは李カクに諫言し政治を匡正した、とある。

賈クは尚書に任命され官吏の選抜任用を司どり多くの点で政治を匡正した。李カクらは彼を信任しつつもけむたがった。

李カクのようなろくでもない奴に諫言し聞き入れられている点からして、恐らく賈クもその場その場で相手の様子を見てどこに本心があるかを見抜く眼力に優れていたと推定できる。この二人であれば許攸の投降が本心か偽降かを見分ける眼力があったはずだ。

官渡の戦いにおいて、曹操は一見イチかバチかの賭けを行ったように見えるが、実際には賈クと荀攸の眼力によって確かめたうえでの確実な判断だったのだ。人を見る眼のある曹操は賈クと荀攸の眼力を信頼していたに違いない。

官渡と対照的なのが赤壁の戦いである。曹操は黄蓋の偽降を信じた。一見許攸の投降を信じたのと同じなようだが、全く違う。

『呉書』周瑜伝引注『江表伝』によると、どうやら黄蓋は曹操に手紙を出しただけで直接会っていない。当然使者はいる。しかし当然その使者は実情を知らない。黄蓋が本当に降伏すると信じさせられている。

不祥事を起こした組織が記者会見する時に事情を知らない真面目な人をカメラの前に出すのと一緒。『江表伝』によると曹操は使者にいろいろ質問して本心の投降か確かめようとするが、これでは賈クと荀攸の慧眼も効果がない。使者は実情を知らないからである。

恐らく曹操は自分の勢力の強大さからして黄蓋が投降するのも十分ありうると考えてしまった。 自らの強大さが盲点をつくってしまったのだ。

人は盲点を突かれると脆い。盲点の怖さは文字通り危険が目に見えない点にある。曹操のように有能な人物であれば危険があっても通常は事前に察知する。危険が遠くからやってきてだんだん近づいてくるのが分かる。前もって対策を打つ。

『老子』に次の言葉がある。

書下し文
難きをその易きに図り、大なるをその小さきに為す。天下の難事は必ずその易きより起こり、天下の大事は必ず小さきより起こる。是を以って聖人は終に大を為さず、故に能く其の大を為す

現代語訳
難しい仕事はそれが易しいうちに考え、大きな仕事はそれが小さいうちに対処する。 世界の難しい問題もかならず易しい問題から起こり、世界の大きな問題はかならず些細な問題から起こる。 そのため聖人は大げさ仕事を行わない、ゆえに大きな仕事を為すのである。

しかし盲点を突かれると別だ。盲点の怖さは文字通り目に見えない点だ。気づいた時にはもう遅い。危険が目前に迫っている。

曹操は自身の強大さが盲点となり黄蓋の偽降を信じた。孔明は人を見る眼があった。しかし国の利益を重んじ本質を理解する人物を有能と考える盲点があり馬謖を重用した。信長は人の心が分からず明智に裏切られた。

曹操、孔明、信長のような偉人にも盲点はある。盲点を突かれると偉人であってもあっけなく滅ぶ。取り返しのつかない致命傷になる。偉大な人物は重要な決断をすることが多い。だから重大なミスをおかす可能性も常にある。偉大な人物でもミスをする。

曹操は官渡で勝利し中原を支配した。そこで彼は油断する。ひとつが黄蓋の偽降を信じた点。もうひとつが張松を軽んじた点。荊州を降した曹操は劉璋の使者の張松を軽んじ張松は曹操ではなく劉備に心を寄せる。曹操のふたつの油断がその後の天下三分の伏線を用意しているのが分かる。

曹操のもう一つの油断が司馬懿に出仕を強要した点。官渡が200年。司馬懿の出仕は201年。読みの早い曹操は天下統一が近づいたと思っただろう。司馬懿を軽んじ「捕えてでも連れてこい。」と言った。関羽を丁重にもてなした人材マニアの曹操ともあろう者が、官渡の勝利で変わってしまったのか・・。

司馬懿は感情を隠すのがうまく根に持つタイプ。その後、曹氏の簒奪をゆっくりと着実に実行に移して行く。司馬師司馬昭にも魏に忠誠を持たないように教育していたのは当然だろう。曹氏に対する司馬氏の簒奪は実に陰険でイメージが悪い。魏晋の大衆的なイメージの悪さはここから来ている。

『老子』に次の言葉がある。

書下し文
禍は福の依る所。福は禍の伏す所。誰かその極を知らんや。

現代語訳
禍を元にして福は生じ、福のうちに禍は芽生えている。誰がその究極を知ろうか。

官渡の勝利は曹操にとっては「福」。 しかしそれによる油断で天下三分と司馬氏による簒奪という「禍」が生じた。


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■上部の画像は熊谷守一「泉」